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慰安婦問題・日韓合意〈後〉 メディアの責任は極めて大きい

楊井人文弁護士
12月28日の会談で慰安婦問題の解決方法で合意した日韓外相(写真:代表撮影/ロイター/アフロ)

12月28日の日韓外相会談で慰安婦問題の最終的解決を図った日韓合意に、早くも暗雲が漂い始めている。年末だが、国内の報道に関して気がかりな点を急いで指摘しておきたい。

在京6紙中5紙が支持

今回の日韓合意を受け、読売、朝日、毎日、産経、日経、東京の在京6紙は、29日付朝刊で大型の一本社説を掲載した。毎日は「日韓の合意を歓迎する」と最も明確に支持を表明。朝日と日経もそれぞれ「歴史を越え日韓の前進を」「『慰安婦』決着弾みに日韓再構築を」と題して支持した。読売も一部懸念を示しつつも「大切なのは、日韓共同の新基金事業を着実に軌道に乗せるとともに、韓国が将来、再び問題を蒸し返さないようにすることだ」と基本的に支持する構えを示した。東京も「両政府が歩み寄り、ようやく妥結にこじつけたことを、重く胸に刻みたい」と述べた。

一方、産経は社説で「本当にこれで最終決着か」と題し、河野談話の見直しをしないまま新基金に政府の予算を投じることに「日本国民の理解が得られるか。疑問である」と指摘、「『妥結』の本当の評価を下すには、まだ時間がかかる」と支持表明を見送った。「河野談話」の見直しも改めて求めるといった「最終的・不可逆的解決」と両立しない主張もしており、実質的に不支持の表明と言えるかもしれない。

産経は過去の社説から後退?

12月29日付朝刊(毎日、朝日、読売、産経)
12月29日付朝刊(毎日、朝日、読売、産経)

もちろん、メディアが今回の日韓合意を支持するのもしないのも自由であり、批判すべき点があればすればよい。ただ、産経の論説には、事実認識において重大な疑義がある。

産経は社説で「『軍関与』に根拠はない」と小見出しをつけ、安倍首相が表明した「当時の軍の関与のもとに、多数の女性の名誉と尊厳を深く傷つけた」というおわびの内容を批判している。「慰安婦募集の強制性を認めた河野談話が破綻した」のだから、「軍関与」の根拠はないのだという。しかし、安倍首相が表明したおわびの文言は、1996年の橋本龍太郎首相以来、小泉純一郎首相まで歴代首相が署名した元慰安婦に対する「内閣総理大臣のおわびの手紙」における表現と全く同じである。この手紙にも、今回の安倍首相のおわびにも、いわゆる「募集の強制性」に触れたくだりは全く出てこない。

かつて、産経の社説は「軍による強制連行」説は強く批判してきたが、「軍の関与」という表現自体は問題視していなかった。18年前、朝日が「強制連行」説から「広義の強制性」説に転換したとされる慰安婦問題特集を受けて書かれた社説で、朝日が用いた「政府や軍の深い関与、明白」との見出しに着目し、「『関与』こそが現時点では正確な表現なのであり、朝日はつまるところ誤りを認めたのだ」と指摘した上で次のように述べていた。

正確には「関与」であることは、実証的研究を重んずる良心的な学者、識者、それに産経新聞がつとに指摘してきたところである。その主張は決して自国の醜悪な面を押し隠そうとするものではない。慰安婦が存在したことも認めている。あくまでも現時点で実証し得る事実を国民に明らかにしようとするものである。

出典:産経新聞1997年4月1日朝刊「主張:破綻した朝日の慰安婦報道 『強制連行』は消えたのか」

このように「(軍の)関与」という表現ならば、実証的な観点からみても「正確」だと言っていた。それが今回は一転、「軍の関与」は「根拠なし」と言い出している。これでは、慰安婦制度に旧日本軍が関与していない、そのような証拠はない、との誤解を与えるおそれがある。最新の実証的研究によれば、慰安所が軍の兵站付属施設であったことを裏付ける一連の証拠が見つかっている(永井和・京大教授の研究論文「日本軍の慰安所政策について」参照)。ここでは詳しく述べないが、その中には陸軍経理学校で「慰安所の開設」について教育を受けたという鹿内信隆氏の証言も含まれることを指摘しておく。

産経は「合意」核心をぼかす

産経は立場に引きずられてか、「合意」の核心をぼかして報じている。しかし立場はどうあれ、「合意」の客観的事実は主張や願望を排して正確に報じなければならない。

日韓合意は、慰安婦問題の「最終的かつ不可逆的な解決」をうたっているが、無条件ではない。その「前提」条件が明確に示されている。それは、(1)韓国が設立する財団に日本の政府予算で資金(10億円程度)を一括して拠出し、(2)日韓両政府が協力して元慰安婦の名誉、尊厳の回復のための事業を行う、というものである。これですべてである。それが、好むと好まざるとにかかわらず「合意」の客観的な内容なのだ(全文は外務省ホームページ参照)。

ところが、産経の記事では、「財団への一括拠出」および「事業実施」が「最終的・不可逆的解決」の「前提」条件になっていることをはっきりと書いていない。後ろの面に収録した記者発表全文を丹念に読まなければわからないようになっている。

そればかりか、合意の核心をぼかしたまま報じた1面記事の中で、「日本政府は在ソウル日本大使館前などに設置された慰安婦像の撤去など、問題解決に向けた韓国の具体的な行動を確認した上で、財団への拠出を執行しても遅くはない」などと論じている。

公表された合意の「前提」条件に「少女像の撤去」は含まれていないし、岸田文雄外相はただの一言も言及していない。(*3) ただ、韓国の尹炳世外相の方から言及して「適切な解決」への努力を表明したにとどまる。にもかかわらず「少女像の撤去」を見届けてから「財団への拠出」をしても「遅くはない」というと、そうした選択肢も今回の「合意」の下で可能であるかのようにミスリードするおそれはないか。

危うい「少女像撤去」リーク報道

「少女像撤去」を取り上げた12月30日付朝刊(奥が読売、手前が朝日)
「少女像撤去」を取り上げた12月30日付朝刊(奥が読売、手前が朝日)

ところが、産経だけでなく、その後、「少女像の撤去」が財団への拠出の前提条件であるかのような報道が相次いだ。

まず、朝日が30日付朝刊1面トップで「10億円『少女像移転が前提』 日本政府、内諾と判断」との見出しで「複数の日本政府関係者によると、少女像を移転することが財団への拠出の前提になっていることは、韓国と内々に確認しているという」などと報じた。しかし、日本側の情報源だけで書かれており、韓国側で裏付けをとった形跡がない。「日本側の認識」を書いたつもりなのかもしれないが「韓国と内々に確認している」と書いている以上、韓国側の裏付けがなくてよいのか。「少女像を移転することが財団への拠出の前提になっている」という表現もわかりにくい。財団拠出を核とする「日韓合意を受け入れる条件」という意味なのか、「財団拠出に先立って履行すべき条件」という意味なのか。案の定、さっそく韓国側から「完全なねつ造」と強く非難されてしまった(聯合ニュース2015年12月30日)。日本政府当局者や外務省当局者が韓国メディアの取材に対し報道を強く否定したとも伝えられている(聯合ニュース)。(*1) 朝日は31日付朝刊の続報で「複数の韓国政府関係者は『我々が交渉の場で移転を約束したことはない』という」と前日の報道を軌道修正した。初めから複数の韓国政府関係者にも取材していれば…覆水盆に返らず。

読売も30日付朝刊1面で、少女像の早期撤去に韓国政府が「前向きに取り組む考えを示していた」と報じた。やはり「日本政府高官」だけが情報源で、韓国側の裏付けが見当たらない。よく読むと、最終交渉段階で、日本側が10億円を拠出する前に少女像の撤去を要望し、韓国側が「理解を示した」だけで、確約したわけでもなさそうである。タイミングは同じだが、朝日の報道とは微妙に一致しない。

一方、共同通信も30日夜になって、「元従軍慰安婦の支援を目的に韓国が設立する新財団への支出に関し、日本政府が被害女性を象徴するソウルの日本大使館前の少女像が撤去されなければ、韓国と合意した10億円を拠出しない意向であることがわかった」と報じた。「安倍晋三首相の『強い意志』の反映」というが、情報源はあくまで「政府筋」である。安倍首相本人に裏付けをとった跡はない。「合意」への不満をもった、あるいは一部支持層からの激しい非難に危機感を抱いた「政府筋」が勝手に「忖度」して言っている可能性も否定できない。それを軽々と「日本政府は」という主語に代表させて報じてよいのか。いったい、その「意向」は政府中枢の何人から裏付けをとったのか。

産経はさらに踏み込み、31日付朝刊で「日本政府が、日本大使館前から慰安婦像が撤去されるまで、韓国政府が元慰安婦支援の事業を行うために設置する新財団に政府予算10億円を拠出しない方針を固めていることが30日、分かった」と報じた。情報源に全く触れずに書いている。ここまではっきり日本政府の「方針」を断定的に報じているのは、今のところ産経だけである。(*2)

いずれにせよ、本当にこの「意向」ないし「方針」を推し進めるなら、少女像撤去の先履行について日韓間の非公表の秘密合意がない限り、今回の「合意」に自ら背くことになりかねない。こうしたリーク報道は、国際社会に認知・支持された合意を自ら破ろうとする思惑が政府内にあるとの疑念を招くのみならず、「合意」撤回を主張する韓国野党や元慰安婦「支援者」側を後押しし、韓国の大統領・与党や一部の元慰安婦ら「合意」支持派を窮地に追い込ませる方向に作用するおそれがある。こうしたリークに、メディアが「政府筋」という隠れ蓑を与えて加担してよいのだろうか。

問われるメディアの真価

慰安婦問題はいうまでもなく、長年、日韓関係のみならず国際社会全体に波紋を広げ、内外の国民感情に重大な影響を与えてきた極めてセンシティブな問題である。1990年代に「償い金」と「内閣総理大臣のおわびの手紙」添えたアジア女性基金事業が、頓挫した経緯もあった。同基金の呼びかけ人・理事を務めた大沼保昭・明治大学特任教授は、メディアが不正確で偏った報道を繰り返したことを一因として挙げている(朝日新聞2014年12月29日付朝刊「慰安婦問題を考える」、参照=【GoHooトピックス】朝日新聞、「慰安婦問題を考える」企画再始動 第三者委の報告受け)。今回も初っ端から、メディアは対立や誤解を増幅し、苦心して積み上げてきたガラス細工を壊すかのような役割を演じつつあるようにみえる。朝日は29日の社説で「両政府とともに、元慰安婦たちの支援者ら市民団体、メディアも含めて、当時の教訓を考えたい」と述べていた。果たして、メディアは教訓を生かそうとしているであろうか。

メディアの役割は極めて大きい。だからこそ情報を垂れ流すのではなく、慎重にも慎重に精査したうえで報じてもらいたい。一部の目立つ声や特定の意図をもった情報に対して表層的にスポットを当てるのではなく、常に警戒し、検証しながら実相に迫ってほしい。合意のとおりいけば財団設立後、日韓共同事業がスタートすることになる。問題を複雑化させるのか、社会をよりよい方向に導くのか。来年はメディアの真価が問われる一年となる。

(*1)聯合ニュースの記事について追記しました。(12/31 16:10追記)

(*2) 本稿を公開後、時事通信も産経と同様の記事を配信していることが確認されました(時事通信12月31日19時52分「10億円拠出、像撤去が前提=元慰安婦支援で安倍首相意向」)。(1/1 12:45追記)

(*3) 岸田外相は共同記者発表の場では少女像(慰安婦像)について一言も言及していません。共同記者発表の後の記者団による取材では、記者から少女像について問われ「韓国政府として適切に解決されるよう努力し、その結果、適切に移転されると認識している」と答えています。(1/1 12:45追記)

弁護士

慶應義塾大学総合政策学部卒業後、産経新聞記者を経て、2008年、弁護士登録。2012年より誤報検証サイトGoHooを運営(〜2019年)。2017年、ファクトチェック・イニシアティブ(FIJ)発起人、事務局長を6年近く務め、2023年退任。2018年、共著『ファクトチェックとは何か』を出版(尾崎行雄記念財団ブックオブイヤー受賞)。翌年から調査報道NPO・InFactのファクトチェック担当編集長を1年あまり務める。2023年、Yahoo!ニュース個人「10周年オーサースピリット賞」受賞。現在、ベリーベスト法律事務所弁護士、日本公共利益研究所主任研究員。

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