12歳で意識不明の交通事故に。画家としての復活の軌跡と、母が綴った涙の記録

事故から18年目、京都で開催された10回目となる個展会場で(筆者撮影)

 夏の終わり、京都で開催された、画家・水上卓哉氏の個展 『地球からの手紙』。

 鮮やかな油彩で地球に息づく命を描いた絵画の数々は、その空間に足を踏み入れた途端、圧倒的な迫力で胸に迫ってきます。

2020年8月、京都大丸の画廊で開催された水上卓哉氏の個展会場(筆者撮影)
2020年8月、京都大丸の画廊で開催された水上卓哉氏の個展会場(筆者撮影)

 会場には今回初めて見る、和紙に描かれた柔らかなタッチの作品群も展示されていました。

 その中のひとつ、『抱っこして』と題された親子の猿のなんともいえぬ温かい表情に、私は思わず引き付けられました。

「これは、紅茶を煮詰めて作った自作のインクで仕上げた作品なんですよ」

 絵の前で立ち止まっている私にそう説明してくださったのは、水上卓哉氏の母・真由美さん(55)です。

紅茶を煮詰めて作ったオリジナルの絵の具で描かれた、水上卓哉氏の新しい作品『抱っこして』(筆者撮影)
紅茶を煮詰めて作ったオリジナルの絵の具で描かれた、水上卓哉氏の新しい作品『抱っこして』(筆者撮影)

「卓哉さんの目にはきっと、いつも励ましてくれたお母さんがこんな風に映っていたんでしょうね」

 私がそう言うと、

「まあ、そうなのかしら。どうもありがとうございます」

 真由美さんは、はにかむように微笑みます。

 突然の交通事故から、まもなく18年。

 あの日を境に、身体の麻痺、高次脳機能障害、言語障害などの後遺障害を背負うことになった一人の少年は、これまでの歳月をどのように生き、どれほどの努力を重ねてここまで辿り着いたのか……。

 10回目となる個展会場で、水上卓哉さんと、母・真由美さんにお話を伺いました。

水上卓哉氏と母親の水上真由美さん(筆者撮影)
水上卓哉氏と母親の水上真由美さん(筆者撮影)

■小学校の卒業式直前に起こった突然の事故

 音楽教室で指導をしていた真由美さんのもとに、事故の第一報を伝える電話が入ったのは、2003年3月15日、午後8時頃のことでした。

 長男の卓哉さん(当時12)が、妹の恵里さんと一緒に自転車で塾から帰宅する途中、横断歩道でスピード超過の車にはねられ、救急車で大学病院に搬送されたというのです。

 真由美さんはその夜のことを振り返ります。

「私は何かの間違いだろうと思いました。きっと卓哉は『けがしちゃった~』と笑っているに決まっている。そんなことを思いながら自宅に戻り、すぐにおばあちゃんと次男を車に乗せ、夫とともに病院へ向かいました」

 病院に到着すると、救命救急センターの廊下には「ご両親はまだなの!」という緊迫した声が響いていました。

 家族の到着を確認した看護師は「落ち着いて聞いてくださいね」と何度も念を押しながら、水上さん夫妻にこう告げたのです。

「息子さんは頭を強く打って意識はありません。瞳孔が開きかかっているので、かなり危険な状態です」

 まもなく、医師から説明がありました。

 卓哉さんは、頭蓋骨骨折、脳挫傷、くも膜下出血、硬膜外・硬膜下血腫、びまん性軸索損傷、鎖骨・肋骨骨折、肺挫傷などの重傷を負い、人工呼吸器を装着。これから低温療法で脳を眠らせた状態にし、脳圧が上がらないようにするが、頭の中の出血が増えれば、開頭手術をしなければならないとのことでした。

「卓哉は脳幹部にも傷があったようで、医師からは『目覚めないこともあります』と言われました。私は大切な我が子に、いったい何が起こっているのかをとっさに理解することができず、強い吐き気を覚えてその場にうずくまりました。主人は母と共に、泣き崩れました」

卓哉さんが乗っていた自転車。後輪が大きく破損し、サドルは飛ばされている。横断歩道上での事故だった(水上さん提供)
卓哉さんが乗っていた自転車。後輪が大きく破損し、サドルは飛ばされている。横断歩道上での事故だった(水上さん提供)

■「一生分泣いた…」母が綴った復活の記録

 交通事故は、一瞬にしてあたりまえの日常を奪います。

 卓哉さんはこのとき小学6年生。卒業式を4日後に控えていました。

 楽しみにしていた中学生活は目前に迫り、新しい制服も出来上がっているというのに、意識は回復しないまま、命の危険すらあるというのです。

 

「朝、目が覚めると、『ああ、これは現実なんだ……』と、絶望的な気持ちになりました。でも、卓哉の下には、小学校に通う妹と弟もいます。子どもたちの前で、母親がうろたえ、泣くわけにはいきません。私は、病院へ向かう車の中と、お風呂の中で、ひとり声を上げて泣きました。あのときはもう、一生分泣いた気がします」

 でも、真由美さんは『絶対にあきらめない』と自分に言い聞かせたそうです。

「私はできる限りプラス思考で考えようと努力しました。入院日記のノートにも、必ず治る、と自分を奮い立たせるために、あえて『卓哉 復活の記録』というタイトルをつけました。そして、当時アニメで流行っていた言葉を使って、目をつむったままの卓哉に、『あなたは選ばれし者だからね!』と、声をかけ続けたのです」

 事故翌日の記録にはこう綴られていました。

<3月16日(1日目)>

am3:00の出血はほぼ止まる。まずは脳の腫れを抑える。脳細胞は大丈夫そうなのだが、それを橋渡ししている器官が壊れてしまっている。しかしそれは再生するのでまだ望みはある。お医者さんもそれにかけているという。

事故に遭う前の卓哉さん。仲の良い妹、弟と(水上さん提供)
事故に遭う前の卓哉さん。仲の良い妹、弟と(水上さん提供)

■意識不明1か月半、長く辛いリハビリの日々

 真由美さんは夫の茂樹さんと交代で病院に通って付き添い、卓哉さんの身体の拘縮が進まぬよう、時間の許す限り手足のマッサージをおこないました。

 また、小さな頃から合唱団に所属し、ピアノや和太鼓にも取り組んでいた音楽好きの卓哉さんに刺激を与えるため、事故の2日後から早くもMDウォークマンをICUに持ち込み、音楽を聴かせはじめたのでした。

 しかし、けいれん発作や発熱が続き、卓哉さんの意識はなかなか戻りません。

 ようやく、呼びかけに反応したのは、事故から1か月半後のことでした。

<4月30日(46日目)>

リハビリにて初めて先生の指示にこたえる。「オレンジの風船に触ろう」というと、届かないながらも手を伸ばす。一応、この日を「意識の戻った日」とする。

 この頃から、卓哉さんには積極的なリハビリが施されます。

 特に効果が目覚ましかったのは、5月5日のこどもの日(51日目)からスタートした『音楽トランポリン療法』(当時の名称は音楽運動療法)でした。

(国立福井医科大学名誉教授・元愛知医科大学客員教授/後藤幸生医師提供)
(国立福井医科大学名誉教授・元愛知医科大学客員教授/後藤幸生医師提供)
事故から51日後、音楽トランポリン療法というリハビリを受ける卓哉さん(同上/後藤幸生医師提供)
事故から51日後、音楽トランポリン療法というリハビリを受ける卓哉さん(同上/後藤幸生医師提供)

「これは、後藤幸生先生、野田燎先生による、遷延性意識障害者向けの画期的な甦生リハビリ法で、その名の通り、音楽に合わせて意識障害のある患者をトランポリンで揺らして心地よい刺激を与えるものです。この日は大阪から野田先生も来てくださり、自らサックスでさまざまな曲を演奏されながら行われたのですが、卓哉はとても楽しそうでした。トランポリンから降りた後、数人の介助のもとで、事故以来、初めて立たせてもらったときには、家族一同本当に感動したことを覚えています」(真由美さん)

野田先生とスタッフの方々に立たせてもらっている卓哉さん。その様子を見守る後藤先生(右)/(同上/後藤幸生医師提供)
野田先生とスタッフの方々に立たせてもらっている卓哉さん。その様子を見守る後藤先生(右)/(同上/後藤幸生医師提供)

■母と二人三脚で、親子通学

 事故から約7か月後、卓哉さんは2度目の転院で、肢体不自由児や重度心身障害児のための医療療育センターに移り、併設されている養護学校の中等部に入学しました。

 そして、翌月には自宅に戻り、名古屋市にある総合リハビリテーションセンターに通院しながら、車いすで養護学校へ通学する生活が始まったのです。

 しかし、本人がどうしても地元の中学校に通いたいと強く希望したため、中学2年の春からは、母・真由美さんが毎日学校へ付き添うかたちで、通学をスタートさせることになりました。

「事故後の後遺症で、卓哉には集中力、意欲、計画性などが欠如していました。言語障害も残っていたので、お友達とのコミュニケーションも難しい状態でした。また転倒の危険もあり、常に見守りが必要だったのです。そこで、私も一緒に登校し、授業では私が隣でノートを取り、サポートしました。とにかく『わからなくてもいい、みんなの中で勉強したいんだ』という卓哉の気持ちを一番に考えました」

事故から約5か月後の卓哉さん。車いすで父と共に(水上さん提供)
事故から約5か月後の卓哉さん。車いすで父と共に(水上さん提供)

■再び、絵筆を握って…

 卓哉さんが絵筆をとり始めたのは、ちょうどこの頃でした。

 真由美さんは、彼が好きだったことに取り組めば、かつての感覚が蘇るかもしれないと考え、5歳のときから通っていた絵画教室に卓哉さんを通わせてみたのです。

「最初はあくまでもリハビリのつもりで、ある程度動く右手で絵筆を持って描いてみました。ところが、力を入れるとどうしても震えるようになってしまうので、左手で描く訓練をしました。それでもなかなか絵にはならず、当初はクルクルと〇を描き続けるだけでした。子どもの頃から何度も参加した名古屋城の写生会にも行ってみましたが、うまく描けず、途中で止めてしまったり……。それでも、少しずつ描けるようになって、翌年にはその写生会で協会長賞をいただくことができたんです」

 子どもの頃から得意だった「絵」に対する自信を取り戻しはじめていた卓哉さんは、いつしか、絵を描き続けたいという夢を持ち始めます。

 そして、高校に進学後、美大を目指して受験勉強を始めることになったのです。

 高3のときに書かれた卓哉さんの作文には、次のように綴られていました。

『なぜ、私が美術の道へ進もうかと思ったかというと、私の中に芸術の力が生きているということと、貧しい人や傷ついた人の心を絵の力でいやしたいからです。私がこう考えたのは、自分が事故で苦しんでいるので、同じように苦しんでいる人たちを、助けたいと思ったからです』

 予備校に通ってデッサンを学び、受験勉強に取り組む日々は、中途障害を負った卓哉さんにとって一言では表せない苦労がありましたが、晴れて京都造形芸術大学(現・京都芸術大学)通信教育部洋画コースへの進学を果たします。

 しかし、入学後も試練の連続で、単位の取得が難しく、3回生を3度経験したこともありました。

 そんな中でも屈せず、作品を描き続けた卓哉さんは、大学院修了時には研究室優秀賞を受賞。さらに、現展をはじめ、美術家の登竜門といわれるシェル美術賞、FACE損保ジャパン美術賞など数々の美術賞に入選を果たします。

 その傍らには常に我が子の復活を信じ、励まし続ける両親の応援があったのです。

■失敗してもやり続ければ成功になる

 生死をさまよったあの事故から18年、今年30歳になった卓哉さんにとって、すでに障害を負ってからの人生の方が長くなりました。

 画家として歩む今、交通事故に遭ってからの自分自身をどのように受け止めているのでしょうか。

 卓哉さんはゆっくりとした口調で、一言ずつかみしめるように答えてくれました。

「かえってプラス思考になったかな、と思います。交通事故で大けがをしたけれど、余計に勉強する時間が増えました。事故が起きた分のパワーが伸びている感じがします。私の制作は『倍返し』、幸せの……(笑)。私の作品に感動してくださった人の心が優しくなって、世界平和になるのが夢です」

 そんな卓哉さんの横顔を優しいまなざしで見つめながら、母の真由美さんはこう語ります。

「卓哉はいつも言うんです。僕は失敗が大好きだ、失敗してもやり続ければ成功になる。見つかるまでやれば、それは見つかったことなんだと。でも、『頑張って事故を乗り越えたんですね』と言われると……、それは違うんです。今もまだ、大変なことはたくさんあります。交通事故は本当に一瞬で、被害者と家族の人生を変えてしまいます。私たちもそれぞれに苦しみましたが、卓哉と同じように脳に傷を負ってしまった方々が発信された情報にどれほど勇気づけられたかわかりません。それだけに、今、苦しい思いをされている方に、私たちの取り組みが少しでもお役に立てたら幸いです。そして、強い意欲でみんなを動かしていく卓哉の夢を、家族全員で一緒に追いかけていければ……、そう思っています」

  

 過酷な体験やハンデを微塵も感じさせず、画面を通して、常に見る者を圧倒するエネルギー。

 お二人の言葉から、その原点を垣間見た気がしました。

 卓哉さんは今「地層」に興味を持っています。それは、自分がこの目で見ることのできる「太古からの地球のメッセージだから」だそうです。

 来年1月、地元の名古屋で予定されている個展では、この壮大なモチーフが描かれた新しい作品に出会えるかもしれません。

妹の恵里さんがボーカルをつとめるユニット「Sapgreen」のアルバムジャケットには、兄である卓哉さんが油彩の作品を提供した(筆者撮影)
妹の恵里さんがボーカルをつとめるユニット「Sapgreen」のアルバムジャケットには、兄である卓哉さんが油彩の作品を提供した(筆者撮影)

●水上卓哉さんのWEBサイト『アトリエTAKUYA』 

 

●『水上卓哉 絵画展』

2021年1月13日(水)~1月19日(火)

名古屋三越栄店 8F ジャパネスクギャラリーにて開催予定