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“地獄の墓掘人”伝説のプロレスラー:ローラン・ボックからのメッセージとロック。アントニオ猪木を悼む

山崎智之音楽ライター
ローラン・ボックvs牛(写真:アフロ)

伝説のプロレスラー:ローラン・ボックの評伝『Bock! Im Kampf Gegen Stiere & Sich Selbst』は、闘いの書だ。

ドイツ人ジャーナリストのアンドレアス・マトレによる本書は、“地獄の墓掘人”と呼ばれたボックの軌跡を小説仕立てで構成した作品。初めて明かされるその幼少期、アマチュア・レスラーとしての五輪出場、プロレスラーへの転向、ビジネス・ベンチャーへの挑戦までが描かれている。刊行されたのは2021年だが、オーストリアのインディペンデント系の出版社から刊行されたこと、図版なしで300ページ以上全編ドイツ語というハードルの高さなどがあり、ようやくその全貌が明らかになってきた。邦訳が待たれるところだが、この記事ではマトレとのロング・インタビューと78歳となるボック本人とのメールのやり取りで得た情報を交えながら、その知られざるロックな側面を明かしていきたい。

(全2回記事の前編)

Andreas Matle著『Bock! Im Kampf Gegen Stiere & Sich Selbst』(オーストリアHeftiger刊/現在発売中)
Andreas Matle著『Bock! Im Kampf Gegen Stiere & Sich Selbst』(オーストリアHeftiger刊/現在発売中)

<シュトゥットガルトの惨劇>

マトレは新聞やウェブに寄稿するジャーナリストだが、1978年からファンジン『Catch Journal』を刊行、1991年の初の著書がルネ・ラサルテスの評伝『Lasartesse – Erinnerungen Eines Catch-Weltmeisters(プロレス世界チャンピオンの追想)』だったという筋金入りのプロレス・ファンだ。彼はこの本を書くために1週間ボックとトルコのビーチ・リゾートで過ごし、その人生とキャリアについて取材。1年半を費やして一冊にまとめている。

ボックは1981年から1982年にかけて新日本プロレスに3回参戦。アントニオ猪木や長州力、藤波辰爾(当時・辰巳)、藤原喜明、木村健悟、ラッシャー木村ら精鋭陣を相手に見せた圧倒的な強さと妥協のない叩き潰すスタイルは、40年を超える今日も日本のプロレス・ファンの胸に刻み込まれている。彼は当時、猪木が提唱していた“真の世界最強を決める”IWGP構想に不可欠な存在であり、1983年の第1回リーグ戦に不参加となったことが悔やまれる。

だが、やはりボックを“伝説”たらしめているのは1978年11月25日、シュトゥットガルト・ギルスベルクホールでのアントニオ猪木戦だろう。モハメド・アリとの異種格闘技戦によって世界的な知名度を得た猪木を迎えて行われたヨーロッパ・ツアーの終盤に行われたこの試合は、過密スケジュールで消耗しきっていた猪木をボックがスープレックスでヨーロッパ仕様の固いマットに何度も叩きつけ、現代でも“シュトゥットガルトの惨劇”として伝えられている(NJPWWORLDで視聴可能)。

アマチュア・レスリング選手として1970年、欧州選手権のグレコローマン・スタイルで優勝。1972年にポーランドで開催された欧州選手権でも上位入賞を果たし、同年のミュンヘン・オリンピックへの西ドイツ(当時)代表としての出場も確実視されていたボックだが、それは実現しなかった。その理由については論議がなされてきたが、マトレは“精神的なもの”と語っている。

「今でいうパニック障害だったのかも知れない。ローランは子供時代に受けた虐待のせいで、過剰にナーヴァスになることがあった。極度に失敗を恐れていたんだ。当時ソ連などでは選手のメンタルケアが重視されていたけど、西ドイツでは一歩遅れていた。出場を巡ってレスリング協会と揉めて、追放に近い形でレスリング界を去ることになったんだ」

アマチュア・レスリング時代のローラン・ボック (courtesy of Roland Bock)
アマチュア・レスリング時代のローラン・ボック (courtesy of Roland Bock)

<スティッフな●●●野郎>

1973年、プロレスに転向するにあたって、ボックは億万長者になれると考えていた。彼は提示されたファイトマネーの額に落胆したという。マトレはこう語る。

「彼は『その代わりフェイク・ファイトはやらない』と言ったんだ。そして1973年、ハンブルクでのデビュー戦で、1ラウンドで対戦相手をスープレックスでのしてしまった。3ラウンドでローランが勝つことになっていたけど、とんでもないデクノボウだったんで、さっさと終わらせてしまったんだ。プロモーターは激怒して、そんなことが続くようだと試合から干すと通告した。それで一応盛り上げるようにしたけど、彼の試合は10ラウンド制でも2、3ラウンド程度の短いものが多かった。アマチュア精神が抜けきっておらず、試合を盛り上げることが出来なかったんだ。アメリカのプロレスみたく派手なムーヴもないから、なかなか人気が出なかった」

そんなボックの“スティッフ(=カタい、キツい)”スタイルのファイトは、本国の西ドイツでは受け入れられなかった。1978年、彼が自らプロモーターを務めたヨーロッパ・ツアーでは猪木、ベテラン選手のルネ・ラサルテス、オランダの柔道王ウィレム・ルスカ、5回オリンピックに出場した伝説的なレスリング選手ウィルフレッド・ディートリッヒ、ボクシング欧州ヘヴィ級王者だったカール・ミルデンバーガーら格闘技者たちが揃ったが、サーカスのテントで行われるショーアップされた“キャッチ”(プロレスのヨーロッパでの呼称)に慣れた観衆の支持を得ることは出来なかった。そのせいでツアーは興行的には失敗に終わっている。

“スティッフ”なボックのスタイルを受け入れたのが、日本のプロレス・ファンだった。力道山vs木村政彦から“プロレスの神様”カール・ゴッチによるトレーニング、猪木の一連の“格闘技世界一決定戦”などによって、シリアス・ライクな闘いとしてのプロレスが根付いてきた日本で、“シュトゥットガルトの惨劇”での情け容赦のないスープレックスと陰にこもったヨーロピアンないでたちのボックはファンの心を捉えた。一流のアスリートだった一方で、プロレス流の見せる技や受け身は得意でなかったものの、そんなゴツゴツしたところも彼の人気を高めることになった。

彼は日本で、志を同じくする仲間と出会う。“不沈艦”“ブレーキの壊れたダンプカー”の異名を取るスタン・ハンセンである。2人は日本でタッグも組んだことがあったが(1981年12月)ハンセンのファイト・スタイルがあまりにハードなため、「お前は“スティッフ・カ●ト”(=キツイ●●●野郎)だな」と驚嘆したそうだ。お互いに認め合う間柄だった彼らだが、ボックの来日期間が短く、ハンセンが全日本プロレスに移籍したため、その関係は長く続かなかった。もし彼らが第1回IWGPで対戦していたら、プロレスの歴史は間違いなく変わっていただろう。

“スティッフ”なファイト・スタイルで愛されたボックだが、もちろんプロ転向後はまるっきりのガチガチの競技者だったわけではない。現在見ることが出来る試合の映像はいずれもプロレスの範疇にあるもので、パンチも前腕部を使ったフォアアーム・スマッシュ、自分の首を支点にして両脚で相手の首を挟んで投げるなどの技で観客を盛り上げている。そして近年、エンタテイナーとしてのボックの新たな側面が明らかになってきている。

Roland Bock / Feridun Zaimoglu / Andreas Matle (courtesy of Andreas Matle)
Roland Bock / Feridun Zaimoglu / Andreas Matle (courtesy of Andreas Matle)

<雄牛との闘い、自分自身との闘い>

本記事のトップ画像は雄牛と戦うボックだ。通信社のクレジットによると撮影されたのは1978年10月。ヨーロッパ・ツアーの直前のことだ。マトレに確認したところ、こんな返事があった。

「ローランはツアーに備えて、さまざまな格闘技者とトレーニングしていた。いろんな人に『良いスパーリング・パートナーはいないか?』と訊いていたんだ。彼の友人が『最高の相手がいるよ』と言ってきたんで付いていったら、食肉処理場の雄牛だったんだ」

ボックが最初に雄牛の角を掴もうとすると、軽く首を振っただけで「彼は吹っ飛んで、壁に叩きつけられた」という。それから2週間、ボックは毎日雄牛の角を掴んで力比べをするなど、特訓に励んでいる。「猪木戦に向けたトレーニングだった」とマトレは語るが、当時の新聞に写真が掲載されるなど、パブリシティの部分が大きかっただろう。もちろんそれと並行してボックはディートリッヒともスパーリングを積むなど、本格的な猪木対策も行っていた。なお、ボック伝の“Im Kampf Gegen Stiere & Sich Selbst(雄牛との闘い、自分自身との闘い)”というタイトルはこの逸話から得たものだ。ちなみに残念ながらボックvs雄牛のフィルムは確認されていない。

余談ながら空手の大山倍達も牛と戦ったことがあり、猪木はモハメド・アリ戦を前にして教えを請い、必殺技アリ・キックを編み出している。猪木とボック、両雄が“牛との闘い”で繋がれていたのは運命だろうか。

<ボック幻の俳優転向>

もうひとつエンタテイナーとしてのボックを代表するのが、伊仏合作映画『Temporale Rosy(伊)/Rosy La Bourrasque(仏)』(1980)だ。英語圏では『Hurricane Rosy』とも呼ばれる同作は女子プロレス・マットを舞台とした作品で、ジェラール・ドパルデューとフェイス・ミントンが主演。ボックは青の全身タイツに身を包んでプロレスのリングに上がり、セリフもありのコミカルな役柄を演じている。“地獄の墓掘人”のイメージからすると、ショッキングですらある映画である。マトレは説明してくれた。

「ジェラール・ドパルデューが大物俳優になる以前のコメディ映画だった。プロモーターでもあるローランがフランスやイギリスから女子プロレスラーをブッキングすることになって、その流れで出演もすることになったんだ。イタリアで6週間かけて撮影した。彼のプロレスのキャリアとは分けて考えるべきだよ」

なお、この作品はドイツでは今でも数年に一度、深夜枠でテレビ放映されるそうだ。

ボックの演技を気に入ったプロデューサーは、4部作の大作『マルコ・ポーロ』(1982〜1983/全4回のミニ・シリーズ)への出演オファーをしている。だが、彼は首を縦に振ることがなかった。

「4ヶ月の中国ロケに難色を示したんだ。そんな長く留守にしたら、奥さんに愛想を尽かされてしまうってね。まあ結局離婚してしまったけど...」

ボックはこのオファーを辞退したことを「自分の人生において最大のミステイク」と語っているそうだ。

ボックが『マルコ・ポーロ』をテレビで見たのはクリスマスの日、刑務所のホールだった。自分の失ったチャンスに、彼は悔し涙に暮れたといわれる。

1978年のヨーロッパ・ツアーの赤字により、ボックは多額の税金未払いが発生。ドイツの多くの州では執行猶予が付くところ、裁判が行われたのが特に州法の厳しいバヴァリア州だったことから、服役することになった。

だが、何度倒れても立ち上がるのがボックである。1983年11月、彼はルートヴィヒスブルクにディスコ“ロックファブリック”をオープンさせている。

<“ロックファブリック”始動>

“ロックファブリック”でのローラン・ボックとアクセプト(courtesy of Roland Bock)
“ロックファブリック”でのローラン・ボックとアクセプト(courtesy of Roland Bock)

1970年代後半に小さなホテルを経営していたボックだが、さらなるビジネス展開を図って、ディスコの運営に乗り出す。建物が冷蔵工場の跡地だったことで、この店は“ロックファブリック(=工場)”と命名され、“Rofa”という愛称で親しまれることになる。

開店のとき、ボックは服役中だった。だが彼は模範囚だったため、6時間のみ仮釈放が許され、オープニング・イベントに姿を現し、出席者たちを驚かせた。

「このディスコは大成功を収めて、アウグスブルクに2号店を出した。そして3号店、4号店...この時期のローランは金銭的に最も成功していた時期だった。彼はタイに渡って、タイという国と現地の女性に恋に落ちた。プール付きの豪邸に住んで、ドイツ・レストランを経営していたんだ」

母親がスペイン領テネリフェに住んでいたことから会いに行った彼だが、闘牛場の跡地が売りに出ているのを見て、200万ドイツ・マルクで買収。ヨーロッパ最大のディスコにする。オープニング・イベントはマイケル・ジャクソンのライヴだ!とぶち上げたこともあった。ケータリングのビジネスもやっていて、マイケルのドイツ公演のプロモーターと面識があったことから言い出した話だったが、当局からディスコ開店の許可が下りず、具体的なアクションを起こす前に幻に終わっている。

<ヘヴィ・メタルに特化したクラブ>

“ロックファブリック”はディスコに加えてライヴ・コンサートが行われ、その店名のとおり数多くのロック・アーティストが出演している。初期の出演バンドをざっと挙げると、

ストームウィッチ/スティーラー/リヴィング・デス/カクメン/タイラン・ペイス/モーターヘッド/スレイヤー/ケルティック・フロスト/ハロウィン/ディストラクション/クリエイター/マッド・マックス/ランニング・ワイルド/タンカード/マノウォー/VOW WOW

など、かなりヘヴィ・メタルに特化していたことが判る。ただ、それは特にボックの趣味ではなく、ブッキングは彼がやっていたわけではなかった。

ボック自身が好きだった音楽についてはほとんど情報がないが、2011年、日本のラジオ番組『真夜中のハーリー&レイス』に電話出演、那嵯涼介氏のインタビューを受けた際にはペット・ショップ・ボーイズ「ゴー・ウェスト」とアルファヴィル「フォーエヴァー・ヤング」をお気に入りとして挙げていた。また『Bock!』で彼は猪木のテーマ曲「炎のファイター」を聴いて、「俺の入場テーマはメアリ・ロースかトニー・マーシャル(共にドイツで人気のあった歌手)に歌ってもらいたい!」と思ったという記述がある。

“ロックファブリック”はキラキラ華やかでなくロックでラフな内装が受けて、週末になると3千、4千人が集まる盛況ぶりだった。ボックは経営者だったが、酔っ払って暴れた客がいたとき、スープレックスでぶん投げて、叩き出したこともあったと伝えられている。

<メタリカ、スコーピオンズとボックの遭遇>

“ロックファブリック”は近辺の都市でライヴを終えたロック・アーティストがくつろぐ場所でもあった。ティナ・ターナー、ブライアン・アダムス、U2、ニール・ヤング、アイアン・メイデン、モトリー・クルーなど大物たちが訪れている。

ちなみに筆者(山﨑)がスコーピオンズのルドルフ・シェンカーに「“ロックファブリック”のローラン・ボックを知っていますか?」と訊いたところ、「うん、ビッグ・ガイだよね。彼がどうかしたの?」と言っていた。彼がアントニオ猪木と対戦した伝説のプロレスラーだと伝えると、「知らなかった!」と驚いている。

メタリカ『マスター・オブ・パペッツ』裏ジャケット(ユニバーサルミュージック/現在発売中)
メタリカ『マスター・オブ・パペッツ』裏ジャケット(ユニバーサルミュージック/現在発売中)

もうひとつ、メタリカの名盤アルバム『マスター・オブ・パペッツ』(1986)裏ジャケットでギタリストのカーク・ハメットが着ているのが“ロックファブリック”のTシャツである。

共同経営者とのいざこざもあり、ボックは“ロックファブリック”から撤退することになる。このクラブは2019年いっぱいで閉店。後期のマネージャーは元ランニング・ワイルドのドラマーだったヴォルフガング“ハッシェ”ハーゲマンで、閉店後タイのパタヤに移住、後継店といえる“ロック・ファクトリー”を開店させた。またシュトゥットガルト郊外ヤクストフェルトにも“ロックファブリック”の名前を受け継ぐクラブが存在するが、どちらもボックとは関係ないようである。

2023年8月に79歳の誕生日を迎えるボックだが、その“闘い”は未だ終わっていない。マトレは教えてくれた。「ローランはアイディアマンなんだ。この本の取材中にも『ドナルド・トランプに挑戦状を叩きつけたらどうだろう?』『動物同士を戦わせるテレビ番組を作れないか?』と言ってきたよ」

かつてのライバルが生涯絶やすことのなかった“燃える闘魂”は、ボックの中で今でも燃えさかっているのだ。

<ボックから日本のファンへのメッセージ>

今回の記事作成にあたって、筆者はボック本人とメールのやり取りを行ってきた。ビデオ・インタビューでその近況を伝えて欲しいというこちらの希望は諸事情により叶わなかったものの、彼は日本のファンに向けたメッセージを送ってくれた。

ローラン・ボックからのメール(筆者に送られたもの)
ローラン・ボックからのメール(筆者に送られたもの)

Hi Yamazaki,

イノキの人生と死についてのメールと追悼メッセージをどうも有り難う。イノキが亡くなったことを2022年10月2日に聞いて、その突然の死にショックと大きな悲しみを覚え、あまりの悲しみに涙せずにいられなかった。

アントニオ・イノキは常に強く、だがフェアなスポーツマンであり、たとえそれがモハメド・アリであろうが、対戦相手を受け入れてきた。ハードなスタイルのせいで、誰も私とレスリングやトレーニングをしようとせず、雄牛や195キロの茶色グマとトレーニングせねばならなかったが、イノキはそんな私を受け入れてくれた。

日本の皆さんもフェアであり、イノキだけでなく私にも拍手を送ってくれた。そのことに私は大きな感銘を受けた。

最後に、アントニオ・イノキの死について私の想いを皆さんに伝えたい。このことに今でも大きなショックを受けている!彼とまた会う日まで、彼が強大で良きチャンピオンとして知られ続けることを、私は日々神に祈り続けよう。彼はグレイテストでベストな存在であり、また別の世界で戦えることを誇りにしている。彼はビッグなチャンピオンであり、2試合の対戦で見せたお互いのテクニックから感銘を受けた。いずれまた再会するときまで、彼が幸福であることを祈りたい。

さらばアントニオ、君はレスリング時代の最高の相手だった。また上の階で会えることを願っているよ!

後編記事では偉大なる“地獄の墓掘人”ボックの軌跡について、さらに深く墓掘りしてみたい。

なおマトレは『Bock!』日本語版の出版を希望しているため、ご興味のある出版社さんはぜひ彼に連絡を取ってみていただきたい。

Special thanks to:

Roland Bock

Andreas Matle

【関連図書】

Andreas Matle

『Bock! Im Kampf Gegen Stiere & Sich Selbst』

オーストリアHeftiger刊

https://www.heftiger.at/

ローラン・ボック近影(courtesy of Roland Bock)
ローラン・ボック近影(courtesy of Roland Bock)

【この記事は、Yahoo!ニュース個人のテーマ支援記事です。オーサーが発案した記事テーマについて、一部執筆費用を負担しているものです。この活動は個人の発信者をサポート・応援する目的で行っています。】

音楽ライター

1970年、東京生まれの音楽ライター。ベルギー、オランダ、チェコスロバキア(当時)、イギリスで育つ。早稲田大学政治経済学部政治学科卒業後、一般企業勤務を経て、1994年に音楽ライターに。ミュージシャンを中心に1,200以上のインタビューを行い、雑誌や書籍、CDライナーノーツなどで執筆活動を行う。『ロックで学ぶ世界史』『ダークサイド・オブ・ロック』『激重轟音メタル・ディスク・ガイド』『ロック・ムービー・クロニクル』などを総監修・執筆。実用英検1級、TOEIC945点取得。

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