Yahoo!ニュース

ニュー・ロマンティックスの貴公子ザイン・グリフ再降臨。ハンス・ジマーとのプロジェクトが蘇る

山崎智之音楽ライター
Zaine Griff / photo by Danny de Jong

ザイン・グリフがアルバム『ザ・ヘルデン・プロジェクト//スパイズ』を発表した。

1980年にアルバム『灰とダイアモンド』でソロ・デビュー。ポップでロマンティックな音楽性とそのヴィジュアルで、“ニュー・ロマンティックスの貴公子”と呼ばれるに至った。

高橋幸宏の『WHAT, ME WORRY? ボク、大丈夫!!』(1982)にゲスト参加したことで日本でも幅広い人気を獲得したザインの新作は、“古くて新しい”アルバムである。

元々本作は1983年、今や映画音楽の巨匠として知られるハンス・ジマーとウルトラヴォックスのドラマー、ウォーレン・カンのプロジェクト“ヘルデン”の作品として始動。ザインは最初期から深く関わっていたが、当時は完成されなかったものだ。その音源をザインが(ハンスとウォーレンの合意の下で)再レコーディング、公式リリースすることになった。

どこまでもポップでありながら気品すら漂う調べ、女スパイ“エヴァ”を軸として起伏に富んだ展開、そして若さとハリを失うことなく説得力を増したヴォーカルは、初期作品を愛するオールド・ファンから本作で初めて彼の音楽に触れる新しい世代のリスナーまで、幅広い音楽ファンのハートに突き刺さるだろう。

今回実現したインタビューで、ザインに『ザ・ヘルデン・プロジェクト//スパイズ』、そしてさまざまなミュージシャン達と“複雑に絡み合って”きた40年の軌跡について訊いた。

なおZaine Griffという彼の名前は長年、日本ではザイン・グリフと表記されてきたが、本人はゼインと発音している。本記事では混乱を避けるためザインとしたが、実際の会話ではずっとゼインだったことをご了承いただきたい。

Zaine Griff『The Helden Project // Spies』ジャケット(ソニーミュージック/現在発売中)
Zaine Griff『The Helden Project // Spies』ジャケット(ソニーミュージック/現在発売中)

<『スパイズ』は早すぎたアルバム。1983年当時の音楽リスナーが受け入れる用意が出来ていたか判らない>

●『ザ・ヘルデン・プロジェクト//スパイズ』は1980年代初頭のヨーロッパ大陸のロマンティシズムと21世紀ならではの新鮮なアプローチが一体化した、誰も聴いたことのない作品となっています。

うん、まさにそんな試みなんだ。オリジナルのサウンドを可能な限り再現しながら現代ならではの空気を感じさせる、そんなアルバムになっている。

●『灰とダイアモンド』(1980)『フィギュアーズ』(1982)という初期作品のポップ美意識が貫かれているのと同時に、前作『ムード・スウィングス』(2016)のナチュラルな延長線上にあるとも言えますが、日本の音楽ファンにアルバムをどのように説明しますか?

ヘルデンは1983年にハンス・ジマーとウォーレン・カンのプロジェクトとして始まったものだけど、私は初期からシンガーとして関わっていたし、チームの一員だという意識があった。大勢の人たちが『スパイズ』を私の3枚目のソロ・アルバムだと思っていたんだ。『フィギュアーズ』と音楽性が連続しているし、ハンスとウォーレンという同じミュージシャン、同じスタジオ、同じエンジニアで作られているからね。2014年に日本公演を行ったとき、何人ものファンから「あのアルバムはどうなっているんですか?」と訊かれた。それで当時未完成だったテープを聴き返してみたんだ。ハンスが40年前に書いて、当時発表されることがなかった音楽が現代においてもパワフルであり続けることに驚かされたよ。それで“ザ・ヘルデン・プロジェクト”として、アルバムを現代に蘇らせることにしたんだ。楽曲は1983年のもので、機材も当時のものに近づけた。40年前のアルバムだし、自分の感性も変化しているけど、あえてアレンジを変えたりはしなかったんだ。でもまったく当時と同じではなく、パーカッションなどリズムの実験が行われているし、サウンドの面で新しいテクノロジーも取り入れているよ。

●『スパイズ』が1983年に出ていたらどんな反応を得ていたと思いますか?

『スパイズ』は早すぎたアルバムだったと思う。さまざまなスタイルが同居していて、隙間がなかった。音楽リスナーがそれを受け入れる用意が出来ていたか判らないね。ハンスにとって、このアルバムは過渡期の作品だった。『フィギュアーズ』は彼が映画音楽に向かって踏み出すヒントになったと思う。ハンスがそう明言したわけではないけど、彼との会話の端々からそれが伝わってきたよ。

●“早すぎた”アルバムであるのと同時に、1970年代末、MTVが登場する直前のヨーロッパ大陸のニュアンスがあるニュー・ウェイヴ色も感じさせますね。

その通り、とてもユーロピアンな音楽性だった。ロンドンで作ったアルバムだけど、それはハンスがドイツ人だということが大きな理由だった。彼はあらゆる面において過剰だった。すべてを求めていたんだ。さまざまなアイディアを持っていて、それを惜しげもなく使っていた。『スパイズ』はさまざまな発見と驚きに満ちたアルバムだよ。

●『スパイズ』に限らず、あなたの作品に流れるユーロピアンなロマンティシズムはどんなところから影響を受けたのでしょうか?

もちろん1枚目からハンスが深く関わってきたことも大きな意味を持っているけど、私自身もヨーロッパの音楽に傾倒していた。ラ・デュッセルドルフやノイ!とかね。それからジョルジオ・モロダーからの影響が大きかった。

●「灰とダイアモンド」「華氏451度」などを曲タイトルにしていますが、ユーロピアン・シネマからもインスピレーションを受けていますか?(それぞれ1958年・1966年公開の映画)

もちろん!『1900年』(1978)、『愛の嵐』(1974)、ルキノ・ヴィスコンティの作品全部...若い頃は常にヨーロッパ映画を見ていた。それらの作品からは音楽、そしてヴィジュアル的インパクトで影響を受けたよ。

●当時のハンス・ジマーはバグルスの「ラジオ・スターの悲劇」のミュージック・ビデオに出演していたり、主にポップ・フィールドで活動していましたが、映画音楽家として成功することを予想出来ましたか?

ハンスが変化していく過程をずっと見てきたんだ。『灰とダイアモンド』はハンスがキーボードやシンセサイザーを弾いて、トニー・ヴィスコンティがプロデューサーだった。セカンド・アルバムの『フィギュアーズ』はハンスと私でプロデュースすることにして、レコード会社の担当にそう話したんだ。「駄目だ。そもそもハンス・ジマーって誰だ?」と言われたよ。とにかく3曲をレコーディングすることを認めさせた。彼らはスタジオに聴きに来て、「素晴らしい!」と言っていた。それで2人で共同プロデュースすることになったんだ。『フィギュアーズ』を作っているとき、ハンスはウォーレンとヘルデンというプロジェクトを始めた。さらに彼はラジオやテレビのコマーシャル用のジングルや短編映画の音楽を手がけるようになって、映画音楽家のスタンリー・マイヤーズとの交流を深めていった。でもスタンリーは体調が良くなく、ハンスが代役で映画音楽を書くことになったんだ。そっちの方が忙しくなって、ヘルデンのアルバムを完成させることが出来なかった。そして彼はハリウッドに拠点を移したんだ。彼は100作以上の映画音楽を手がけているけど、私は出来るだけ追いついて見るようにしている。どれも素晴らしいものだし、ヘルデン時代から受け継がれる彼の個性が貫かれているよ。彼が音楽を書いた初期の映画では、よく聴くと『スパイズ』と似たフレーズが使われたりもしているんだ。

●ウォーレン・カンの役割はどのようなものでしたか?1983年といえばドラム・マシンが進化して、人間のドラマーが取って代わられるようになった時期ですね?

あの時代、多くのドラマーが職を失ったのは、ウォーレンのような才能のあるミュージシャンがスタジオでリン・ドラムスのプログラミングをしたり、プログラミングを普及させたことも一因だったんだ。でも彼はライヴでのインダストリアル風のリズムがユニークだったし、マシンには出来ないヒューマンなドラミングをすることが出来た。ドラム・キットとプログラミングを共存させたスタイルは高橋幸宏と通じるものがあったよ。

●ウォーレンとはどのように知り合ったのですか?

私がイギリスをツアーすると、大抵どこでショーをやっても前日か次の日にウルトラヴォックスが同じ都市でショーをやっていた。同じようなサーキットだったんだ。何度か同日に同じ都市にいることもあって、そのときウォーレンと知り合った。当時ウルトラヴォックスはジョン・フォックスがシンガーだったよ。『システムズ・オブ・ロマンス』(1978)を聴いてウォーレンのドラムスが素晴らしかったんで、私のライヴでプレイしてもらうことにした。その後、ウルトラヴォックスにはミッジ・ユーアが加入した。ミッジとはそのずっと前、彼がスリックというバンドでやっていた頃から知り合いだったんだ。ジョン・フォックス期もミッジ期も、どちらも好きだよ。

●シングル「スウィング」B面で「パッショネート・リプライ」をカヴァーして、ミッジがプロデュースしていますが、それはどのようにして実現したのですか?

当時私のマネージャーだったクリス・オドンネルがウルトラヴォックスも担当していたんだ。シン・リジィのマネージャーもやっていた人物だよ。彼はウルトラヴォックスのシングル「ヴィエナ」のB面曲だった「パッショネート・リプライ」を気に入っていて、ミッジのプロデュースで私が歌ったら良いと提案してきた。好きな曲だったし、ミッジのスタジオに行ってレコーディングしたよ。

●「2529」のエンディングにはベルリオーズの「怒りの日」っぽいフレーズを聴くことが出来ます。レコーディングと近い時期に公開された映画『シャイニング』(1982)で「怒りの日」が使われていましたが、影響はあったでしょうか?

「怒りの日」の一部を使うことはハンスのアイディアだった。意図的なもので、こだわって何時間もかけてアレンジしていたよ。でもそれが『シャイニング』からの影響だったのかは判らないな。今度ハンスに訊いてみないとね。

Hans Zimmer & Zaine Griff on BBC TV / courtesy of Sony Music Japan
Hans Zimmer & Zaine Griff on BBC TV / courtesy of Sony Music Japan

<YMOの登場はとてつもなく新鮮だった>

●1980年代のあなたのキャリアはしばしばニュー・ロマンティックス・ムーヴメントと関連づけられますが、どのような関わりを持っていましたか?ブームは短期間で“フェイド・トゥ・グレイ”(=灰色の中に消えていく)してしまいましたが...。

1970年代後半、私はロンドンのいろんなクラブに行って、ニュー・ロマンティックスの代表的なナイトクラブ“ブリッツ”にも出入りしていた。ラスティ・イーガンやスティーヴ・ストレンジとも交流があったし、シーンの一部だったといえるだろう。当時のロンドンはそんな感じだった。ミュージシャンやアーティスト、デザイナー達がみんな友達で、お互いから刺激を得ていたんだ。

●『ムード・スウィングス』をスティーヴ・ストレンジに捧げていますが、彼とは親しい仲でしたか?

うん、友達だったよ。当時のマネージャーがロンドンのメイフェアにある“レジェンズ”というナイトクラブを経営していて、スティーヴは毎晩のように来ていた。顔を合わせると飲みながら話をしたよ。音楽や本、アートの話をした。楽しかったね。

●“ブリッツ”のDJでスティーヴ・ストレンジとヴィザージを組んでいたラスティ・イーガンが2020年に“ヴィザージ1980x2020”プロジェクトを始動させて、あなたがヴォーカルを取ることになっていましたが、その話はどうなったのですか?

2020年、コロナ禍のせいでヨーロッパでやる予定だったライヴが中止になってしまったんだ。結局2021年にベルギーのフェスティバルで“ヴィザージ1980x2021”としてショーが行われたけど、私はコロナ禍のせいで渡航出来なくて、残念ながら欠席した。ライヴに向けてスタジオでデモ・トラックを録ったり、気合いが入っていたんだ。スティーヴが歌った曲をやるのは、スリルを感じたよ。また日程を調整して実現させたいね。ウルトラヴォックスやヴィザージと私の進んできた道は、複雑に絡まり合ってきたんだ。今私が一緒にやっているクリス・ペインはゲイリー・ニューマンやヴィザージでやってきて、「ヴィザージ」のソングライターの1人だったりする。

●スティーヴ・ストレンジと“ブリッツ・キッズ”仲間がデヴィッド・ボウイの「アッシェズ・トゥ・アッシェズ」ミュージック・ビデオに出演して、あなたもボウイと共演するなど、そのあたりもキャリアが絡まり合っていますね。

うん、私がプロデューサーのトニー・ヴィスコンティと『灰とダイアモンド』をレコーディングしているとき、スタジオにボウイがやって来たんだ。それで曲を聴いてもらって、彼のレコーディングに私が参加することになった。彼は好奇心が強い人で、「髪はどこで切っているの?」「靴はどこで買った?」「どんな音楽を聴いているの?」とか質問責めにしてきたよ。

●ところでヘルデン(helden)はドイツ語で“英雄”の意味で、ボウイは「ヒーローズ」のドイツ語ヴァージョンを「Helden」として発表しましたが、それがプロジェクト名の元ネタになったのでしょうか?

いや、ハンスがドイツ人だからそう名付けたんだ。プロジェクトを始めるずっと前からこの名前に決めていたよ。

●ちなみにポリスの「見つめていたい」を初めて聴いたとき、自分の「プラウド・ワンズ」をパクられた!と考えましたか?

ハハハ、当時はちょっと気にしたけど、今ではもう大丈夫だ。私のライヴでバック・ヴォーカルを務めていたのがレイ・シェルというニューヨークの若いシンガーだったんだ。それから2ヶ月ぐらいして、彼はポリスのバック・ヴォーカルとしてツアーに同行することになった。そのときサウンドチェックで「プラウド・ワンズ」(作詞作曲:ザイン・グリフ)の「Every step you take, every move you make...」の部分を歌って、スティングが耳にしたのかも知れないね。これまで何度か「裁判で訴えればいいのに!」と言われたことがあるよ(笑)。まあ、偶然だと思うけどね。

●『スパイズ』も含め、あなたの近年の作品ではクライヴ・エドワーズがドラマーとして参加していますが、彼はUFOやワイルド・ホーシズなど、ハード・ロックでよく知られた存在です。彼とはどのように活動するようになったのですか?

クライヴとは親しい友人なんだ。私と妻がロンドンに行くと、彼の家に泊めてもらう仲だよ。彼と初めて会ったのは1970年代、彼がロンドンのいろんなバンドを渡り歩いていた頃で、まだワイルド・ホーシズを始める前のことだった。それからも数々のバンドを経てきたけど、それが彼の素晴らしいところだ。ソフトでメロディックな曲でパワフルなドラムスを叩くことも出来るし、さまざまなスタイルに順応してベストなプレイを出来るんだよ。2014年に日本公演を行ったときにプレイしてくれた日本人ドラマーも素晴らしかったけど、次回行くときはクライヴも連れていきたいね。

●『灰とダイアモンド』の「トゥナイト」でシン・リジィ〜ワイルド・ホーシズのブライアン・ロバートソンがギターを弾いているのは、マネージメントの繋がりによるものですか?

いや、クリス・オドンネルと会う前、私のマネージャーはディー・ハリントンという人だった。彼女はロッド・スチュワートのガールフレンドだった人で、モデルをやっていたのを辞めて、ロンドンに来てマネージャー業を始めたんだ。で、私のマネージャーをしているとき、ブライアンと交際していた。それで知り合って、アルバムの1曲でギターを弾いてもらうことになったんだよ。

●イエロー・マジック・オーケストラ(YMO)のイギリスでの公演を見に行ったときのことを教えて下さい。

1980年だったかな、ロンドンでのショーに行ったんだ。終演後、バックステージでメンバー達と会った。特にユキ(高橋幸宏)とは親しくなって、彼の『WHAT, ME WORRY? ボク、大丈夫!!』で「This Strange Obsession」を共演したし、私の『フィギュアーズ』にも参加してもらったよ。YMOの登場はとてつもなく新鮮だった。イギリスの音楽シーンは彼らのようなアーティストを必要としていたんだ。彼らは我々とはまったく異なった方向から音楽にアプローチしてきたし、多くのイギリス人アーティストに影響を与えてきた。ビー・バップ・デラックスのビル・ネルソンもその1人だった。

●TV番組『トップ・オブ・ザ・ポップス』テーマ曲として知られるフィル・ライノットの「イエロー・パール」について、曲を書いたミッジ・ユーアは1979年にシン・リジィの一員として行った日本公演、そしてYMOからインスピレーションを受けたと話していました。

当時のロンドンはいろんな人脈が繋がって、面白いことが起こっていたんだ。ロンドンのどこのクラブに行ってもフィル・ライノットがいたよ。マネージメントが一緒というのを抜きにしても、すぐ友達になった。彼の家に行ったこともあったし、結婚式にも出席したんだ。ただ、ドラッグのせいで彼の人生が崩れ落ちていくのを見るのは辛かった。彼が亡くなって(1986年)本当に悲しかったよ。

●ファンというのは常に欲張りなものです。“幻”だった『スパイズ』が世に出たことで、次は1983年にミッジ・ユーアと作った未完成アルバムを聴きたいという声が高まると思いますが、それが現実となる可能性はあるでしょうか?

そのテープはずっと探しているけど、見つからないんだよ!ザ・ヘルデン・プロジェクトは未完成でもテープがあったから、それをロード・マップにして完成させることが出来た。でもミッジとのアルバムはそうはいかない。40年前の記憶は断片的だし、新作を作るのと同じになってしまう。マルチ・トラックはシェパートンの“ロックステディ・スタジオ”にあるゲイリー・ニューマンの倉庫に仕舞われていたんだ。でも数年前、探しに行ったらどこかに移されていた。一時ゲイリーのビジネスはうまく行っていなくて、スタジオの引っ越しがあったりしたからね。とても良い曲がいくつもあったし、発掘することが出来ないのは残念だよ。

●今後の活動予定を教えて下さい。

2023年には『スパイズ』の曲をステージで披露するライヴをやりたい。イギリスでいくつかブッキングの話があるけど、アルバムは日本先行発売だし、日本のファンにぜひ生で聴いてもらいたいんだ。今、クリス・ペインと一緒に書いている新曲、それから初期の曲もプレイするオールタイム・ベスト・ショーにするつもりだよ。日本に行ったのは2014年、東京でショーをやったときだけなんだ。すごく盛り上がってくれて、私のキャリアのハイライトのひとつとなっている。それ以来、まだ戻っていないんだよ。『ムード・スウィングス』では日本人ミュージシャン達と共演したけど彼らが日本、私がニュージーランドにいて、トラックをやり取りしたんだ。この国のファンはずっと私の音楽を愛し、サポートしてくれた。我々の間にある特別な絆を、ライヴのステージで確認したいね。

【最新アルバム】

ザイン・グリフ

『ザ・ヘルデン・プロジェクト//スパイズ』

ソニーミュージック SICX 30156

現在発売中

https://www.sonymusic.co.jp/artist/ZaineGriff/

【関連記事】

トニー・ハドリー(ex-スパンダー・バレエ)来日インタビュー/その言葉に宿る真実=“true”

https://news.yahoo.co.jp/byline/yamazakitomoyuki/20221014-00319353

音楽ライター

1970年、東京生まれの音楽ライター。ベルギー、オランダ、チェコスロバキア(当時)、イギリスで育つ。早稲田大学政治経済学部政治学科卒業後、一般企業勤務を経て、1994年に音楽ライターに。ミュージシャンを中心に1,200以上のインタビューを行い、雑誌や書籍、CDライナーノーツなどで執筆活動を行う。『ロックで学ぶ世界史』『ダークサイド・オブ・ロック』『激重轟音メタル・ディスク・ガイド』『ロック・ムービー・クロニクル』などを総監修・執筆。実用英検1級、TOEIC945点取得。

山崎智之の最近の記事