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フランシス・ダナリーが振り返るイット・バイツとプログレッシヴ・ロック【後編】

山崎智之音楽ライター
Francis Dunnery / courtesy of IAC

2022年3月にニュー・アルバム『紫の城壁の詩~希望、深淵、そして新世界 - The Big Purple Castle』を発表するフランシス・ダナリーへのインタビュー、全2回の後編。

前編記事ではCD3枚組のアルバムについて語ってもらったが、後編ではさらに掘り下げながら、フランシスの音楽的ルーツ、そしてイット・バイツを含む彼のキャリアの思い出を訊いてみた。

Francis Dunnery『The Big Purple Castle』(Inter Arts Committees / 2022年3月25日発売)
Francis Dunnery『The Big Purple Castle』(Inter Arts Committees / 2022年3月25日発売)

<坂本龍一の音楽で食事がいっそう美味になる>

●「支配される世界 (原題:The Whole World On My Shoulders)」を解説するビデオで“辛い時期には1970年代のプレイリストだけが心の慰めだった”と語っていますが、どんな曲を聴いていたのですか?

人間関係や経済面の問題を抱えているとき、1970年代の音楽は僕にとって感情のタイムマシンだった。11、12歳の頃に戻った気分になれたんだよ。 ロッド・スチュワートの「マギー・メイ」、スティーラーズ・ホイールの「スタック・イン・ザ・ミドル・ウィズ・ユー」、レオ・セイヤーの「恋の魔法使い (原題:You Make Me Feel Like Dancing)」...それらを聴くことはただ現実逃避だけではなく、人生のさまざまな困難に立ち向かうためのセラピーにもなったんだ。

●いわゆるプログレッシヴ・ロックを聴いたりもしますか?

1970年代のポップ・ミュージックはBGMとして流して聴くことが多いけど、ジェネシスはいつも本気で聴き込んでしまう。『月影の騎士 (原題:Selling England By The Pound)』や『ライヴ』は少年時代からのオールタイム・フェイヴァリットだよ。『眩惑のブロードウェイ』もそうだけど何百回、何千回聴いたか判らないぐらいだ。

●あなたのお子さんたちはどんな音楽を聴いていますか?

僕がいつもカーステレオで昔の音楽を流しているから、彼らもそれに付き合ってくれているよ。初期のジェネシスやスウィート、ディープ・パープルとかね。決して無理に聴かせているのではなく、自分から楽しんでいるみたいだ。

●『フランケンシュタイン・モンスター』(2013)では兄上バズ・ダナリーのバンド、ネクロマンダスの曲をプレイしましたが、彼らのようなアンダーグラウンド・ロック・バンドを聴いたりはしますか?

あまり聴くことはないな。『フランケンシュタイン・モンスター』を作ったのは、ネクロマンダスの曲が未完成のデモのままリリースされてしまったからだった。僕は兄が抱いていた完成形のヴィジョンを聴いて知っていたから、それをレコーディングしたんだ。僕はアルバムを完成させると聴き返すことがないから、ネクロマンダスの音楽も聴くことは必要に迫られない限り、ないね。君が言うアンダーグラウンド・ロック・バンドというのは、具体的にどんなバンドを指しているのかな?

●1960年代末から1970年代初頭にかけての“ヴァーティゴ・レコーズ”から作品を発表していたようなバンドとか...。

“ヴァーティゴ”だったらブラック・サバスやロッド・スチュワートは好きだけど、彼らはアンダーグラウンドではないかもね。

●『フランケンシュタイン・モンスター』ではウォーム・ダストの「ブラッド・オブ・マイ・ファーザーズ」をカヴァーしていましたが、他に比較的マイナーなバンドであなたの音楽性を形作ったものはありますか?

ウォーム・ダストは兄がレコードを持っていたんだ。だから彼へのトリビュートの意味合いでカヴァーしたんだよ。あと兄の影響で好きになったのは、アイソトープというバンドだった。それからチック・コリア、マハヴィシュヌ・オーケストラ、ソフト・マシーン『7』とかね。兄は12歳年上だったから、音楽の趣味もポップなだけじゃなくて、“大人向け”のレコードを聴いていたんだ。

●兄上はUKジャズ・ロックがお好きだったのですね。アイソトープのゲイリー・ボイルのソロ・アルバムにゲイリー・ムーアがゲスト参加していましたが、彼が1970年代にやっていたコロシアムIIは?

うん、コロシアムIIも好きだったよ。ゲイリー・ムーアはイット・バイツと同じ“ヴァージン・レコーズ”と契約していたけど、直接会う機会はなかったんだ。「パリの散歩道」「アウト・イン・ザ・フィールズ」をヒットさせたけど、コロシアムIIの頃がベストだったよ。初めて彼のギターを聴いたのは、スキッド・ロウというバンドでのプレイだった。彼は当時から炎に包まれていたね。

●最近聴いたアルバムでお気に入りは?

坂本龍一の『async』が素晴らしかった。あのアルバムの1曲目は、彼自身の葬送曲と思えるほどに感情が込められていたね。象の映画(『星になった少年 Shining Boy & Little Randy』)のサウンドトラックも美しかったし、彼の音楽だったら1日24時間聴いていても飽きないよ。レイク・アリエルの近くのディクソン・シティに“トーキョー”という日本料理店があって、ディナータイムのBGMに坂本龍一の音楽を流しているんだ。食事がいっそう美味になるよ。

●ネクロマンダスのデモはブラック・サバスのトニー・アイオミがプロデュースしたことで知られていますが、彼と会ったことはありますか?

いや、会ったことがないんだ。でも兄がオジー・オズボーンのバンドでギターを弾くことになって、オジーとは何度も会ったよ。彼はうちにしょっちゅう来て、ソファで寝ていた。当時僕は11歳ぐらいだったし、彼はもう大人だったけど...変わった人だった。いつも酒を飲んでいて、なんだか無口だったし、あまり話す機会はなかったよ。その後オジーはブラック・サバスに戻って、兄とのバンドは立ち消えになったんだ。

●イット・バイツは“ヴァージン・レコーズ”からデビューしましたが、初期の“ヴァージン”といえばマイク・オールドフィールド、タンジェリン・ドリーム、ファウスト、ゴングなどがいましたね。あなた達が契約した頃はセックス・ピストルズ、ヒューマン・リーグ、カルチャー・クラブなど、レーベル・カラーがかなり変わっていましたが、“ヴァージン”と契約したのは初期のレーベル陣容も意識していましたか?

そういうわけでもないけどね。“ヴァージン”は比較的新しいレコード会社だったし、さまざまなアイディアに対してオープンで、彼らからもいろんなアイディアを出してきた。“CBS”や“ワーナー”など、他にも同じぐらいの契約金をオファーしてきた会社があったけど、彼らに熱意を感じて、契約することにしたんだ。

●『ザ・ビッグ・ラド・イン・ザ・ウィンドミル(旧邦題:ヒーローを探せ!)』(1986)は 1980年代のプログレッシヴ・リヴァイヴァル、いわゆる“ポンプ・ロック”ブームに遅れる形でリリースされましたが、ブ−ムをどのように見ていましたか?マリリオンや他のバンドをどのように見ていましたか?

僕たちはそんなブームとはまったく無関係だったし、何とも思っていなかった。他のバンドがやっていることは全然気に留めていなかったしね。マリリオンが出てきたときはちょっと耳にして、ああ、ジェネシスが好きなんだろうとは思ったけど、どうせ聴くならクローンではなく本物のジェネシスを聴くだろ?

●1980年代はその“本物のジェネシス”がポップ路線に転向したこともあり、ファンがそれに代わるものとしてマリリオンや初期のイット・バイツに飛びついた部分もありましたが...。

うん、でも僕たちはすぐにジェネシスの影響下から脱して、自分たちの音楽をやっていたけどね。ピーター・ゲイブリエルがいた頃のジェネシスは現実世界から飛び立たせてくれるバンドだった。彼らの世界観を模倣するなんて不可能だよ。フィル・コリンズがリーダーシップを握って、モータウンのソウルや、メインストリームのポップに近くなった。彼らのメロディとソングライティングが一級品であることは変わらなかったけど、僕たちを夢中にさせた要素は薄れた気がする。

Elasie, Frankie and Dad at The Big Purple Castle / courtesy of Inter Art Committees
Elasie, Frankie and Dad at The Big Purple Castle / courtesy of Inter Art Committees

<日本のブルース・プレイヤーと共演してみたい>

●「想い出の家 (原題:The Last Time I Went Home)」ビデオで、子供の頃テレビで『ザ・ワールド・オブ・スポーツ』を見ていたと言っていますが、サッカーやクリケットに加えてプロレスもやっていましたね。プロレスは見ていましたか?

まず第一にサッカーを見ていたよ。セルティックFCのサポーターなんだ。今、日本人選手が4人いるんだよね。プロレスは当時も今も、あまりファンではないんだ。格闘技だったらボクシング、それからUFCをたまに見るよ。イット・バイツ時代にロベルト・デュランと一緒の飛行機になったことがあるし、TV番組“デヴィッド・レターマン・ショー”でジョージ・フォアマンと一緒になったこともある。それからイヴェンダー・ホリフィールド、フロイド・パターソンとも会ったよ。最近のボクサーではタイソン・フューリーが好きなんだ。僕と同じ、イングランド北部の出身だということもあってね。自分でボクシングをやろうと思ったのは、1分ぐらいだった。顔面を殴られるのは嫌だからね。

●イット・バイツの『ライヴ・イン・ロンドン』CD5枚組(1986/1988/1990)と1989年の『ライヴ・イン・ジャパン』を同梱したCD6枚組セットがリリースされますが、ロンドン公演に対する特別な想いはありますか?

北イングランドの田舎町から出てきたイット・バイツが初めてロンドンでプレイしたときは、感慨深いものがあった。ここまで来たんだ!ってね。それからツアーをやるたびにロンドンでショーを行ってきたけど、マーキー・クラブからアストリア、ハマースミス・オデオンと、会場が大きくなっていった。『ライヴ・イン・ロンドン』ではその成長過程を聴き取ることが出来る。より多くの人々に聴いてもらえるのはエキサイティングだった。さらに僕たちにとって大きな目標だった日本でのライヴが入っているから、CD6枚でイット・バイツの軌跡を辿ることが可能なんだ。

●あなたはスティーヴ・ハケットの『ジェネシス・リヴィジテッドII』(2012)に参加するなど、プログレッシヴ・ロック界隈のシーンにも顔を出していますが、イット・バイツ時代のメンバーと顔を合わせて気まずくなったりしませんか?

そんなことはないよ。当時のメンバー達との関係は良好だし、気まずい思いをすることなんてない。最近顔を合わせる機会は減ったけど、ボブ・ダルトンやディック・ノーランとは比較的よく話すんだ。ジョン・ベックは消息不明で、どこにいるか誰も知らないけどね。

●他のメンバーとのコミュニケーションが取れているとなると、イット・バイツのあなたを含む黄金ラインアップでの再結成を望む声もあると思いますが、実現の可能性はあるでしょうか?

ないない。あり得ないよ。アルバムを3枚出して世界をツアーして、楽しいことも辛いこともあったけど、それを繰り返すつもりはない。今は他にすることがあるし、自分の現在を受け入れているよ。僕のことを、牧場と馬が待っているんだ(笑)。

●コネチカットの牧場ではどんなことをするのですか?

競走馬を育てるのではなく、馬を育てて、老人や子供、障害者の見学を受け入れるようにしたい。動物との触れあいはセラピーになるからね。僕自身、馬は大好きだよ。娘も乗馬が好きなんだ。それにイチゴを育てたり、養蜂もしたいね。

●故ジンジャー・ベイカーもコネチカットの牧場で馬を育てていましたね。

それは知らなかった!一度会ってみたかったな。かなり個性の強い人だったみたいだけど...。

●今後の音楽プロジェクトの予定は?

今度ブルース・アルバムを出すんだ。オリジナルのブルース曲を書き溜めていて、トゥームストーン・ダナリー名義でリリースするよ。ブルースとは技術ではなく、感情の音楽なんだ。B.B.キングのようなブルースは好きだけど、僕にはシカゴやミシシッピのブルースメンみたいな正統派のブルースはプレイ出来ない。だから僕なりのフィルターを通したブルースを楽しんで欲しいね。

●あなたの初のソロ・アルバム『ウェルカム・トゥ・ザ・ワイルド・カントリー』(1991)は当初ソロでなくトゥームストーン・ダナリー名義で出すといわれましたが、それはどこから来て、何故止めたのですか?

イット・バイツを脱退して、新バンドを結成するつもりだったんだ。ソロではなくてね。最初に思いついたバンド名はザ・ダナリー・トゥームストーンというものだった。“ダナリー家の墓標”というものだよ。不吉な名前で面白いと思ったけど、さらにひとヒネリ加えてザ・トゥームストーン・ダナリーにした。アメリカのブルースマンみたいでクールだろ(笑)?まあレコード会社の意向もあって、結局ソロとして発表することになったけどね。ブルースの曲を書くようになって、久々に思い出したんだよ。

●イアン・ブラウンの『ミュージック・オブ・ザ・スフィアーズ』(2001)でプレイした経験について教えて下さい。

イアンと一緒にやるのは楽しかったよ。彼は独創性のあるアーティストで、クールな人間だ。彼は独自のアイデンティティを持っていて、外界のブルシットには耳を貸さない。彼の音楽をプレイするバンドだったし、俺はあまり長くやるつもりはなかったけど、敬意を持っているし、良い思い出しかない経験だった。「F.E.A.R.」はすごく良い曲だったね。この歌詞はすべての行がF・E・A・Rのいずれかで始まるんだ。そんな遊びの部分も含めて最高だよ。実はイアンのいたザ・ストーン・ローゼズは未だに聴いたことがないんだ。いつか聴いてみようと思いながら、ついお気に入りの1970年代ロックに手を伸ばしてしまうんだよ。

●ザ・ストーン・ローゼズのギタリスト、ジョン・スクワイアはジミー・ペイジから影響を受けていましたが、あなたは1990年代、ロバート・プラントのバンドに参加して『フェイト・オブ・ネイションズ』(1993)でプレイ、ツアーに同行したことがありましたね。彼と「胸いっぱいの愛」などをプレイした経験はどんなものでしたか?

ロバートはリスクを冒すのを恐れない人間だ。彼とは3年一緒にツアーしたけど、いつだってスリリングだったよ。彼はレッド・ツェッペリンの過去に囚われることなく、アーティストとして前進していくことを選んだけど、ライヴでは往年の名曲を一節だけ歌ったり、頑なに過去を否定するのではなく、柔軟な姿勢を見せるようになった。ロバートは知的な人だよ。実は僕はあまりレッド・ツェッペリンのファンではなかったんだ。『フィジカル・グラフィティ』は好きで、何かのチャリティ・イベントで「ダウン・バイ・ザ・シーサイド」をプレイしたのは嬉しかったね。毎晩数万人の観衆の前でプレイするのもエキサイティングな経験だった。

●『紫の城壁の詩』でプレイしているベーシストのポール・ブラウンとはいつからの付き合いですか?彼はどんなプレイヤーですか?

ポールは多彩なミュージシャンだ。緩急をつける表現力があって、攻撃的にも繊細にもなれる。決して目立ちたがるタイプではなく、他のバンドでプレイすることもあまりない。でも僕の音楽でどう弾けばいいか心得ているし、良い相棒だよ。僕と同じエグレモント出身で、人間としても最高だし、いい友達だ。2016年の日本公演には連れて来られなかったけど、もし今年行けることになったら、ぜひ参加してもらうよ。

●あなたが日本に戻ってくるのを、ファンは待っています!

すごく嬉しいよ。日本でライヴをやるとして、どんな演奏曲目リストを組むのか悩むよね。昔からのファンはイット・バイツの曲も聴きたいだろうし、ソロとしてもたくさんの曲を書いてきた。さらに『紫の城壁の詩』を作って、レパートリーが40曲増えたからね!さらに海外ツアーにはものすごい経費がかかるから、ライヴ会場が満員にならないと元を取れないんだ。アルバムが売れない時代だし、ツアーで先行投資するというビジネスモデルが成り立たないんだよ。今のところ『紫の城壁の詩』に伴うツアーをやるつもりはないんだ。でも、トゥームストーン・ダナリーでツアーするのは面白いかもね。リハーサルやサウンドチェックも最小限で済むし、日本のどこかの小さな酒場でフラッとショーをやれたら最高だよ。日本のファンはブルースも気に入ってくれるかな?日本はあまりブルース・カントリーというイメージがないけど...。

●B.B.キングは初渡英した1969年からわずか2年後の1971年に初来日して『ライヴ・イン・ジャパン』をレコーディングしてるし、“ジャパン・ブルース・カーニバル”にあらゆるブルース・アーティストが出演して、たくさんの日本人アーティストも活躍していますよ。

それは素晴らしい!また日本をツアーするべき理由が出来たよ。日本のブルース・プレイヤーと共演してみたいね。

【アルバム特設サイト】

The Big Purple Castle - Songs and Stories For The Heart

http://thebigpurplecastle.com/

【国内レーベル・サイト】

エンタテインメント事業−IAC(インター・アート・コミッティーズ)グループ - INTER ART

https://www.interart.co.jp/business/entertainment.html

音楽ライター

1970年、東京生まれの音楽ライター。ベルギー、オランダ、チェコスロバキア(当時)、イギリスで育つ。早稲田大学政治経済学部政治学科卒業後、一般企業勤務を経て、1994年に音楽ライターに。ミュージシャンを中心に1,200以上のインタビューを行い、雑誌や書籍、CDライナーノーツなどで執筆活動を行う。『ロックで学ぶ世界史』『ダークサイド・オブ・ロック』『激重轟音メタル・ディスク・ガイド』『ロック・ムービー・クロニクル』などを総監修・執筆。実用英検1級、TOEIC945点取得。

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