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ロバート・ベリー/プログレッシヴ・ロックへの道【後編】

山崎智之音楽ライター
Greg, Robert and Keith / CrosswordProd.

キース・エマーソンとのプロジェクト、3(スリー)の魂を受け継ぐ3.2(スリー・ポイント・トゥ)としてのアルバム『Third Impression』を2021年に発表したロバート・ベリーへのインタビュー。

前編記事では3〜3.2での活動について語ってもらったが、後編となる今回はキース・エマーソンとの思い出、そしてプログレッシヴ・ロック・シーンでの活動について訊いてみたい。

3.2『Third Impression』ジャケット/欧Frontiers Records
3.2『Third Impression』ジャケット/欧Frontiers Records

<キースは尊敬するアーティストであり師匠。そして親愛なる友人だった>

●『Third Impression』はあなたのソロ・アルバムと捉えることも可能ですが、キース・エマーソンへの想いが込められていますね。

うん、キースと出会う前から、彼のDNAが私の体内を流れていたんだ。若い頃からずっとエマーソン・レイク&パーマーの音楽のファンだったし、3の『スリー・トゥ・ザ・パワー』(1988)に収録されている「トーキング・アバウト」を書いたのは、キースと初めて会うずっと前だった。でも曲を書いた時点で、キース・エマーソン風のファンファーレがあった。1986年にGTRに入ったとき、スティーヴ・ハウが気に入ってギター・アレンジを加えたんだ。翌年私がバンドを抜けたとき、「一緒に書いた曲はどれも使っていいけど、『トーキング・アバウト』だけは自分でレコーディングしたい」と主張した。その2日後に初めてキースと会って、ランチをしたんだよ。意気投合して、バンドを結成することになったとき、一緒にレコーディングしようと提案したんだ。それが『スリー・トゥ・ザ・パワー』に収録されたバージョンだよ。

●初めてキースと会ったときのことを覚えていますか?

うん、3を結成するとき、カールと一緒に彼の家に行ったんだ。イギリスのお城のような大邸宅で、玄関まで行って「ごめん下さい」と言ったら、キースが2階の窓から尻を突き出して「よお!待っていたよ」と迎えてくれた(笑)。キースはシリアスなミュージシャンでありアーティストだったけど、ユーモアを兼ね備えた人間でもあった。暖炉のある部屋でキースがピアノを反対側から弾いていて、ビックリしたこともある。それを彼のお母さんが何事もなかったように見ていたのが思い出に残っているよ。すごく広い家だったから、お母さんに「キースがどこに行ったかご存じないですか?」と訊ねたこともある。彼は尊敬するアーティストであり、さまざまなことを教えてくれた師匠だった。そして何より、親愛なる友人だった。

●2016年3月11日、キースは自らの命を絶ってしまいましたが、その予兆は感じていましたか?

キースは心臓など体調に不安を抱えていたし、そのせいで精神面も弱気になっていた。それにプライベート面でも決して順調とはいえなかった。予定されていた日本公演(2016年4月)の前、彼は右腕の痛みを訴えていた。それで私は「だったら中止にした方がいいよ」と言ったのを覚えている。でも彼は「いや、自分の音楽を愛してくれる日本のファンを失望させられない。やらなきゃダメだ」と言っていた。ただ彼は1日2公演をやらねばならないと知って、とても滅入っていたよ。体力的にも気力的にも辛いってね。

●日本公演が発表された時点で、最初から1日2公演は告知されていたし、キースが知らなかった筈がないと思うのですが...。

単にキースが契約書をよく読んでいなかったのかも知れない。彼は世界最高のロック・キーボード奏者である一方で、文章を書くのも読むのも決して得意ではなかったんだ。携帯メールを書くのも苦労していたぐらいだからね。「毎晩2公演をやるのは辛いけど、とにかく頑張るよ。それが終わったら孫に会いに行って、その後にアルバムを完成させよう」と話していた。日本公演に向けてプロモーション用ビデオを撮影するなど、前向きになっていたんだ。彼と私の作業はポジティヴだったし、密に連絡を取り合って、ジョークを飛ばしたりもしていた。それなのに突然いなくなってしまって、本当にショックだったよ。ただ、これは言っておかねばならないけど、キースが自分の命を絶ったのは、日本でショーをやりたくないというのが理由ではなかった。彼は日本のファンを愛していたし、敬意を持っていたよ。それ以外の、幾つもの原因が重なっていたんだ。...今にして思えば、キースはロサンゼルスに住むべきではなかったと思う。ロサンゼルスの音楽シーンでは彼の才能、彼の豊かな実績が受け入れられず、払われるべき敬意を払われなかった。彼の出身地であるイギリス、あるいは彼のガールフレンドの故郷の日本に住んでいれば、しかるべきリスペクトを払われていた筈だ。悲しいし、残念でならないよ。

<グレッグ・レイクはとても気さくな人。一瞬で好きになった>

●3を結成することになった経緯を教えて下さい。

ちょっと長くなるよ、良いかな(笑)?1980年代半ば、私は“ゲフィン・レコーズ”とソロ・アーティストとして関わっていたんだ。A&Rのジョン・カロドナーが私のデモを気に入ってくれてね。当時カール・パーマーはエイジアに在籍していて、同じ“ゲフィン”と契約していたんだ。でも彼は半分バンドを脱退しかけていて、私は彼と新バンドを結成するべくロンドンに引っ越していた。ちょうどその頃、カロドナーはサミー・ヘイガーをエディ・ヴァン・ヘイレンに引き合わせたんだ。サミーがヴァン・ヘイレンに加入したことで、サミーのバンドはフロントマンを失ってしまった。それでカロドナーは、私をフロントマンに据えようとした。スティングmeetsブライアン・アダムズみたいなアーティストとして売り出そうとしたんだ(苦笑)。私がまだそのことを知る前に、サミー・ヘイガー・バンドのメンバー達は当時のロバート・ベリー・バンドのライヴを見に来ていた。それでデヴィッド・ラウザーだったかゲイリー・ピールだったか覚えていないけど、電話をかけてきて、一緒にやらないかと話を持ちかけてきたんだ。でも私はそのときちょうどGTRに加入する話を決めたばかりだった。それで当時ゲイリーと一緒のバンドでやることはなかったんだ。

●GTRにはどのように加入したのですか?

GTRは1枚アルバムを出した後、スティーヴ・ハケットが脱退した。そのとき私はイギリスに来ていて、カール・パーマーと新バンドを結成しようとしていた。でも、なかなか他のメンバーが揃わなかったんだ。そんなとき当時マネージャーだったブライアン・レインが「スティーヴ・ハウが君のデモを聴いて、気に入っている」と言ってきた。それでスティーヴの自宅に招かれた。奥さんやお子さんとも会って、楽しい時間を過ごすことが出来たよ。それで彼と共作を始めた。GTRの2枚目のアルバムを作ることを前提にしていたんだ。スティーヴは私のヒーローだったし、夢のような経験だった。ただ、シンガーのマックス・ベイコンは私のことが好きでなかったし、一緒にやっていくのが苦痛だったんだ。彼とやっていくことは、自分の人生を惨めにするだけだった。それで脱退して、カールと再合体した。そうして2人でキース・エマーソンに会いに行ったわけだ。キースはちょうどエマーソン・レイク&パウエルを解散させたばかりだったし、3人でやることにしたんだよ。

●その時期、ジェフ・ダウンズと活動するプランもあったそうですが?

うん、イギリスに住んでいた頃、ブライアン・レインが『ラジオ・スターの悲劇』のステージ・ミュージカルに関わっていたんだ。それで2曲歌うことになって、ジェフと知り合ったんだよ。でも、そのミュージカルではオペラみたいな唱法で歌うことを求められた。出来ないことではなかったけど、私はロックをやりたかったんだ。それで辞退することになった。このミュージカルは結局上演されなかったと思う。でも、それからジェフとは友達になって、いろんなライヴのバックステージやNAMMショーで話すようになった。いつか一緒にアルバムを作ってみたいね。

●グレッグ・レイクとの交流はありましたか?

グレッグとはずっと面識がなかったんだ。1990年代のエマーソン・レイク&パーマーのライヴでは何度もバックステージに顔を出したけど、グレッグはショーが終わるとすぐホテルに戻っていたし、話す機会がなかった。彼と知り合ったのは2010年、キースとグレッグがデュオ・ツアーをやったときだった。とても気さくな人で、一瞬で好きになったよ。ただ、彼の身体はすごく大きくなっていたし、決して体調が万全というわけではなかったと思う。彼とはその一度しか会う機会がなかったんだ。グレッグの奥さんだったレジーナとはFacebookで繋がっているんだ。彼女も素晴らしい人物だよ。

Robert Berry / courtesy of Robert Berry
Robert Berry / courtesy of Robert Berry

<プログレッシヴ・ロックの ストーリー性やエモーションの深みが好きだ>

●プログレッシヴ・ロックの世界とはどのように関わるようになったのですか?

少年時代からエマーソン・レイク&パーマーやイエスのファンだったし、大学時代にはハッシュというプログレッシヴ・ロックのバンドをやっていた。 ストーリー性やエモーションの深みが好きなんだ。高度なテクニックの応酬も素晴らしいけど、どちらかといえばAORに近い、コーラスを歌えるようなタイプの曲が好きかな。ただ、自分が特定の“シーン”に属するとは考えたことがないよ。ただ自分の愛する音楽を書いて、プレイするだけだ。それに誰かが“プログレッシヴ・ロック”と名前を付けるならば、それで良いと思う。私はグレッグ・キーン・バンドでプレイしたり、ザ・シュレプトーンズ(The Schleptones)でスカとパンクを混ぜたような音楽をやってきたから、ひとつのジャンルにこだわりはない。日本のKEMURIのアルバム(『LITTLE PLAYMATE』/1997)をミックスしたり、ロス・ティグレス・デル・ノルテというメキシコ系のバンドをレコーディングしたり、いろんな音楽が好きなんだ。

●“マグナ・カルタ・レコーズ”との関わりについて教えて下さい。

“マグナ・カルタ”は“シュラプネル・レコーズ”のプログレッシヴ系サブ・レーベルで、いろんなバンドのトリビュート・アルバムを出していた。数曲ずつ参加したよ。最初にやったのは『ザ・ムーン・リヴィジティッド〜ピンク・フロイド・トリビュート』(1995)だった。『狂気』を再現するアルバムだったけど、最初は断ったんだ。既存の曲を“再現”することには意味を感じなかったからね。結局やることにしたけど、後悔が残ってしまった。だから次の『テイルズ・フロム・イエスタデイ〜イエス・トリビュート』(1995)からは単なるコピーではなく、自分なりのアレンジを加えてやったよ。ハッシュ時代にカヴァーしていたアレンジで「ラウンドアバウト」をやったんだ。スティーヴ・ハウも気に入ってくれた。それから「ウォッチャー・オブ・ザ・スカイズ」やジェスロ・タルの「天井桟敷の吟遊詩人」も独自のスタイルでやったよ。リズムを強力に、ほとんどダンサブルにしたりね。『アンコールズ、リジェンズ、アンド・パラドックス~トリビュート・トゥ・ザ・ミュージック・オブ・ELP』(1999)でジョーダン・ルーデス、サイモン・フィリップスとやった「悪の教典#9」は誇りにしているよ。“マグナ・カルタ”のピーター・モーティセリは私に貴重なチャンスを与えてくれたし、感謝している。

●“マグナ・カルタ”の看板バンドのひとつだったマジェランのトレント・ガーデナーも2016年6月11日に亡くなっていて、3.2の「ザ・ルールズ・ハヴ・チェンジド」は彼にインスパイアされたものだそうですが、どんな交流があったのですか?

トレントとは長い友人だった。マジェランの最後のアルバム『Innocent God』(2008)ではドラムス、ベース、ギターを担当しているし、彼と一緒にジャック・フォスターIIIというアーティストのアルバムを3枚プロデュースしたんだ。キース・エマーソンの3ヶ月後に彼が亡くなったのは、本当にショックだった。2人とも親しい友人で素晴らしいキーボード奏者で、しかも自らの命を絶ってしまったんだからね。何が起こっているのか、どうして起こらねばならなかったのか...今でも理解出来ないんだ。キースはアーティストで、トレントは岩のようにソリッドだった。

異なったスタイルだったけど、どちらも素晴らしかったよ。トレントは元警官で、アルコールやドラッグに溺れることもなかった。ただ、彼も弟のウェインも偏頭痛に悩まされていたんだ。兄弟が自らの命を絶ってしまったのは本当に悲しい。

Robert Berry / courtesy of Robert Berry
Robert Berry / courtesy of Robert Berry

<ジョー・リン・ターナー、ドン・エイリーとやる話があった>

●あなたはプログレッシヴ・ロックと同時にハード・ロック/ヘヴィ・メタルとも深く関わってきましたが、どんな活動をしてきましたか?

初のソロ・アルバム『Back To Back』(1985)を出した後、元レインボーのジョー・リン・ターナー、フォリナーのキーボード奏者だったアラン・グリーンウッドと何度かリハーサルしたよ。当時私は若手ミュージシャンで、何とか軌道に乗せようとしたけど、どうもしっくり来なかった。そのときカール・パーマーと一緒にやる話が持ち上がって、自然消滅したんだ。1986年にロンドンでカールと合流したけど、ドン・エイリーも参加する話があったんだ。この時点でのヴィジョンは、エマーソン・レイク&パーマーみたいなギターレスのトリオ編成のバンドだったけど、ドンやジェフ・ダウンズはギターを含めたフル・バンドのテクスチャーで輝くタイプだと思う。結局ドンとはリハーサルをすることもなく、私はGTRのオーディションを受けることになったんだ。

●ドンは現在ディープ・パープルの一員ですが、「アンコモン・マン」という曲でキース・エマーソンへのトリビュート的な演奏をしていますね。

まだ曲を聴いていないんだよ。いつも自分の音楽や、クライアントから依頼された曲を聴いているから、仕事から離れると音楽から距離を置くことが多いんだ。でもドンがキースへのトリビュートをしたというなら、それは特別なものだろうし、ぜひ聴いてみるよ。

●あなたのハード・ロック・バンド、ALL 4 1について教えて下さい。

私と“フロンティアーズ・レコーズ”とはとても良い関係なんだ。オーナーのセラフィノ・ペルジーノは何年も前から、3のニュー・アルバムを作って欲しいと言ってきた。ただ、その時点でキースはもう3は過去のプロジェクトだと言って、まったく興味を示さなかった。それで代わりに私のソロ・アルバム『ザ・ディヴァイディング・ライン』(2008)を出すことになった。とても高い評価を得たし、私はロックの表舞台に戻ることが出来た。それからも3の新作を求められてきたけど、キースはやはり関心がないと言ってきた。それで友人でボストンのゲイリー・ピールとALL 4 1をやることにしたんだ。当初はただのスタジオ・セッションで、アルバム『ワールズ・ベスト・ホープ』(2017)を作ったけど、こういう1980年代スタイルのサウンドもなかなかクールだと感じたよ。このバンドを“オール・フォーティ・ワン”と呼ぶのはゲイリーのアイディアだったんだ。誰もが“オール・フォー・ワン”だと思っていたけどね(笑)。このバンドではライヴは一度もやっていないんだ。ヨーロッパのフェスティバルに出演する話があったけど、実現しなかった。

●ALL 4 1のシンガー、テリー・ブロックとの作業はどんなものでしたか?

テリーと一緒にやったのは初めてだったけど、素晴らしい声をしていたよ。アルバムでは半分ぐらいのヴォーカルを私が歌っていたんだ。テリーも私もハスキーな声質だけど、テリーの方がスティーヴ・ペリーっぽいクリアーな声質かな。テリーが歌っていると思ったら、実際は自分だったという箇所もあるけどね。彼がやっていたジャイアントは聴いたことがあるけど、いろんなバンドでやってきたし、ソロでも歌っているから、すべてをフォローしているわけではないんだ。でも本当に才能に溢れるシンガーだよ。

●テリー・ブロックはディープ・パープルのシンガー候補になったこともありますね。

それは知らなかった!でも決して驚くことではないな。彼は素晴らしいシンガーだからね。テリーは物静かな人だった。電話で何度も話したし、一緒に曲を書いたけど、メロウな人物で、あまり自分のことを話すタイプではなかった。

●あなたのもうひとつのハード・ロック・バンド、アライアンスはデビュー作『ボンド・オブ・ユニオン』(1996)から最新作『ファイアー・アンド・グレイス』(2019)まで5枚のアルバムを出していますが、どんな性質のバンドでしょうか?

アライアンスは私とゲイリー・ピール、そしてナイト・レンジャーのキーボード奏者として知られているアラン“フィッツ”フィッツジェラルドでやっているバンドなんだ。ストレートでメロディックなハード・ロックで、ヒネリはないけど、そのぶん飽きが来ない。フィッツはナイト・レンジャーのツアーが忙しくて、『ファイアー・アンド・グレイス』には参加出来なかったけど、脱退したわけではない。またアルバムを作るときには声をかけるよ。...知ってる?フィッツはモントローズのベーシストだったこともあるんだ。サミー・ヘイガーがマイケル・アンソニーやジェイソン・ボーナムとやっているザ・サークルのライヴでのキーボードのサンプリングは、私が弾いてプログラミングしたものなんだよ。サミーは凄まじいエネルギーに溢れた人だ。もう70歳を超しているのに素晴らしいヴォーカルだし、テキーラやウイスキーなど、ビジネスマンとしても一流なんだ。

Robert Berry / courtesy of Robert Berry
Robert Berry / courtesy of Robert Berry

<娘が東京オリンピックの出場候補だった>

●あなたがグレッグ・キーン・バンドのメンバーというのが、少々意外な気がしました。

うん、グレッグとの作業は楽しんでやっているよ。アルバム『Rekihndled』(2017)ではグレッグと曲を書いて、ギターとベース、キーボードを弾いている。彼はラジオ・ショーを20年ぐらいやっているんだけど、あるときベーシストで共作者のスティーヴ・ライトが心臓発作を起こしたんだ。それでラジオの生放送中に私に電話をかけてきた。朝の8時半ぐらいだよ。「ベーシストが必要なんだ。興味ないか?」と訊かれた。それ以前から友人だったけど、自分が彼のバンドに加入することは考えていなかった。彼の音楽は普段、私がやっているよりもシンプルだからね。ただ、私はシンプルでストレートなロックンロールも好きなんだ。だから「ぜひやりたい!」と即答したよ。

●アルバム『Rekihndled』について教えて下さい。

グッド・フィーリングなロックンロールだよ。すごく気に入っているし、彼との音楽的パートナーシップは素晴らしいものだと確信している。私は誰かと組むと、新しいアルバムを作りたいんだ。グレッグのバンドに入ったら、毎晩「ジェパーディ」のようなヒット曲をプレイするだけでなく、彼とクリエイティヴな作業をやりたい。もちろんグレッグの名前を冠したバンドだし、彼が音楽的なリーダーシップを握っているけど、彼のベストな部分を引き出すのが私の役割だった。新しいアルバムも一緒に作るつもりだし、彼との活動は続けていきたいね。

●スタジオ・プロデューサー業もやっているそうですね。

うん、フー・ファイターズの音源を使ったら7万5千ドルかかるところを、私が“それっぽい”音を作ったら1万ドルで済むよ(笑)。私のスタジオにはあらゆる楽器や機材があるんだ。ギターが130本あるし、昔のモーグから最新のシンセ、ヤマハのコンサート・ピアノ、ハモンドB-3、それから3台のドラムキット、マーシャルやVOXのアンプもある。私の強みは、音楽を客観的に見ることが出来ることだと考えている。グレッグ・キーン・バンドでの作業でも、グレッグがやりたい音楽とファンが聴きたい音楽のバランスを取って、クールなアルバムにすることが出来たよ。アーティストの人気の理由、そのアーティストが得意とするものを引き出すのが私の仕事なんだ。以前KEMURIを手がけたこともあるし、また日本のアーティストとも一緒にやりたいね。

●映画音楽も書いているそうですが、どんな作品を手がけてきましたか?

映画本編のサウンドトラックよりも、トレーラー(予告編)の音楽をやることが多いかな。『ミッション・インポッシブル』シリーズの前作(『ローグ・ネイション』/2015)や『ディクテーター 身元不明でニューヨーク』(2012)とかね。R.E.M.の「エヴリボディ・ハーツ」をサシャの兄弟が歌っているんだ。トレーラーは観客が最初に目にするから、インパクトが必要なんだ。“正解”はないし、試行錯誤の連続だけど、そんなチャレンジが刺激的だよ。

●日本のファンはあなたがやって来るのを待っています!

日本には熱心なプログレッシヴ・ロックのファンが大勢いることを知っているし、ぜひツアーをしたいね。2020年のヨーロッパ・ツアーがCOVID-19のせいで中止になったけど、2022年に仕切り直しして、その一環で日本にも行けたら最高だ。実は娘が中・長距離ランナーとして東京オリンピック候補だったんだ。テイラー・ワーナーといって、妻の連れ子で直接血は繋がっていないけど、誇りにしている。残念ながら出場はならなかったけど、応援に行きたかったね。でも楽しみは先に取っておくよ。日本のステージに立つのが、今から楽しみなんだ。

【最新アルバム】

3.2『Third Impression』

ヨーロッパ Frontiers Records

【アーティスト公式サイト】

http://www.robertberry.com

【レコード会社公式サイト】

http://www.frontiers.it/album/5655

音楽ライター

1970年、東京生まれの音楽ライター。ベルギー、オランダ、チェコスロバキア(当時)、イギリスで育つ。早稲田大学政治経済学部政治学科卒業後、一般企業勤務を経て、1994年に音楽ライターに。ミュージシャンを中心に1,200以上のインタビューを行い、雑誌や書籍、CDライナーノーツなどで執筆活動を行う。『ロックで学ぶ世界史』『ダークサイド・オブ・ロック』『激重轟音メタル・ディスク・ガイド』『ロック・ムービー・クロニクル』などを総監修・執筆。実用英検1級、TOEIC945点取得。

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