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【インタビュー後編】ブライアン・ダウニー、シン・リジィ『ブラック・ローズ』とギタリスト達を語る

山崎智之音楽ライター
Brian Downey / photo by Tanja Young

シン・リジィの伝説のドラマー、ブライアン・ダウニーに訊くインタビュー全2回の後編。

前編記事では1979年の名盤アルバム『ブラック・ローズ』について語ってもらったが、後編となる今回はさらに掘り下げてもらうのに加えて、シン・リジィ後期のギタリスト達との思い出を明かしてもらった。

<シン・リジィの「サラ」でプレイ出来なかったのは残念だった>

●『ブラック・ローズ』の「S&M」ではあなたとフィルが作曲者としてクレジットされていますが、 どのように曲作りを行ったか覚えていますか?

Thin Lizzy『Black Rose: A Rock Legend』ジャケット/現在発売中(ユニバーサル)
Thin Lizzy『Black Rose: A Rock Legend』ジャケット/現在発売中(ユニバーサル)

シン・リジィでは、誰かが持ってきたリフやメロディのアイディアをジャムで発展させていくことが大半だった。私もドラムスでその作業に関わっていたけど、何故その曲だけ私がクレジットされていたのか、まったく覚えていない。他の曲と較べて、貢献の度合いが高くも低くもなかったと思うんだ。

●「ヤツは彼女をドラムみたいにぶっ叩いた」という歌詞があることで、あなたをクレジットしたのかも知れませんね。

そうかもね(笑)。「S&M」はフィルがSMプレイをユーモラスに歌った曲なんだ。フィルの歌詞には怒りや哀しみ、そして微笑みがあった。シン・リジィの音楽が今なお世界中のファンの胸を打つのも、そんな普遍的な感情が込められていたからだよ。

●『ブラック・ローズ』では「ドゥ・エニシング(ヤツらはデンジャラス!!)」もドラムスが重要な位置を占めていますが、どんなことを覚えていますか?

あの曲のイントロはヘヴィ・シャッフルみたいな感じで、私が「ティンパニを使ってみよう」と提案したんだ。ハード・ロックでティンパニを使った例がどれだけあるか知らないけど、かなり珍しいんじゃないかな?フィルはエルヴィス・プレスリーのファンだった。それでこの曲には「ブルー・スエード・シューズ」が一瞬歌われている。フィルのソロでの「キングズ・コール」もエルヴィスについての歌だった。

●『ブラック・ローズ』が制作された1978年といえば、フィルがソロ作『ソーホー街にて』(1980)、ゲイリー・ムーアがソロ作『バック・オン・ザ・ストリーツ』(1978)、ブライアン・ロバートソンがジミー・ベインと結成したワイルド・ホーシズが『ファースト・アルバム』(1980)を作っており、メンバーの交流も盛んでしたが、一種のコミュニティを形成していたのですか?

うーん、決してそういうわけでもなかった。いろんなバンドが同時にひとつのスタジオに入るとか、そういうことはなかったよ。シン・リジィは独自に『ブラック・ローズ』を作っていたし、他のバンドもそれぞれ別のスタジオで自分のアルバムを作っていた。ただ、フィルはとてもオープンな性格だったし、ミュージシャン友達もたくさんいた。セックス・ピストルズやブームタウン・ラッツのメンバー達とザ・グリーディ・バスターズというサイド・バンドを結成して、ライヴをやったりしたよ。

●「ウィズ・ラヴ」にはワイルド・ホーセズのジミー・ベイン(元レインボー、後にディオ)が参加していますが、それはどんないきさつだったのですか?

ジミーはフィルの友人だったんだ。彼がスタジオに来たとき、私はその場にいなかった。「ウィズ・ラヴ」で自分がプレイしたか、覚えていない。別の日にレコーディングしたかも知れないけど、ジミーと共演した記憶はまったくないよ。

●ゲイリー・ムーアの『バック・オン・ザ・ストリーツ』ではあなたもプレイしていますね。

『バック・オン・ザ・ストリーツ』は『ブラック・ローズ』より前に録ったものだよ。ゲイリーがシン・リジィに再加入する前にレコーディングしたんじゃないかな。私も「パリの散歩道」などでプレイしているけど、その前に彼が在籍していたコロシアムIIのメンバー達も参加していた。2つの異なったバンドによって作られたアルバムのようだった。しばらく聴いていないけど、ゲイリーの多彩なスタイルをフィーチュアした、とても良いアルバムだと思うよ。

●「サラ」であなたがプレイしていないのは何故でしょうか?

あの曲は『ブラック・ローズ』のパリでのレコーディング・セッションとは別に録音されたものだった。確かナッソーでレコーディングして、私の体調が良くなくて行けなかったんだっけな(実際にはロンドンの“モーガン・スタジオ”で録られたもの)。マーク・ナウシーフがプレイしている筈だ。「サラ」はフィルが生まれたばかりの娘さんのことを考えて書いた曲なんだ。彼のソフトな側面が描かれている素晴らしい曲で、本当ならば私が叩きたかったね。残念だよ。1978年のナッソーでのセッションでは『ソーホー街にて』の一部も録った筈だ。でもフィルが本腰を入れてソロ・アルバムに着手したのは『ブラック・ローズ』が完成してからだったよ。

●「サラ」にドン・エイリーがゲスト参加するという話があり(実現せず)、ジミー・ベインはフィルと交流があったり、ドンとコージー・パウエルはTV番組『オールド・グレイ・ホィッスル・テスト』のスタジオ・ライヴでゲイリー、フィル、スコットと共演しています。彼らはいずれもレインボーのメンバーでしたが、レインボーとシン・リジィにはどんな繋がりがあったのでしょうか?

うーん、フィルがジミー・ベイン、ゲイリーがドンやコージーと個人的な友人だったことを除けば、あまり直接的な繋がりはなかったね。私はリッチー・ブラックモアとは一度だけ会ったことがある。『ブルー・オーファン』(1972)の頃、ロンドンの“ド・レイン・リー”スタジオでリハーサルしているフィルと私のところに彼がギターケースを持って現れて約1時間、数曲をジャムで演って、そのまま去っていったんだ。ほぼ同時期に、リッチーとイアン・ペイスはフィルをリハーサル・ルームに招いて、ジャムをやっている。フィルを引き抜いて新バンドを結成しようとしたのかも知れない。エリック・ベルはそう考えていたようだったよ。でも結局フィルはシン・リジィを続けていくことにして、リッチーとイアンもディープ・パープルでの活動に戻っていった。今となっては彼らがどうしたかったのかも判らないよ。私は部外者だったからね。

●あなた達にとってディープ・パープルはどんな存在でしたか?

シン・リジィがデビューした頃、ディープ・パープルは既にビッグだった。シン・リジィは下積み時代に彼らのカヴァー・アルバムを作ったこともある。ファンキー・ジャンクション名義の『Funky Junction Play a Tribute to Deep Purple』(1973)というアルバムだった。ロンドンの“ド・レイン・リー”スタジオのナイジェリア出身のデズというスタッフがフィルと友人で、話を持ってきたんだ。シン・リジィはまだ「ウイスキー・イン・ザ・ジャー」がヒットする前で、金銭的に困窮していた。それで変名バンドでプレイすることにしたんだ。最初期のシン・リジィではライヴでディープ・パープルの曲を演奏することもあったし、特に難しくもなかった。ただ、ヴォーカルの声域がフィルと異なっていたんで、ベニー・ホワイトというシンガー(エルマー・ファッドのシンガー)に歌ってもらうことにしたんだ。それで数時間をかけてリハーサルして、その日のうちにレコーディングしたんだよ。廉価盤レコード会社(“ステレオ・ゴールド・アワード”)からレコードが出て、私たちはギャラを手にして、それで話は終わりの筈だった。シン・リジィが成功してからファンに知られて、インターネットを通じて拡がったんだ。隠していたわけではないけど、宣伝もしなかったし、まさか45年経ってあのアルバムの話をすることになるとは、不思議な気分だよ(苦笑)。

ブライアン・ダウニーが現在活動するAlive and Dangerous / courtesy Brian Downey
ブライアン・ダウニーが現在活動するAlive and Dangerous / courtesy Brian Downey

<シン・リジィはヘヴィなギタリストを必要としていた。ジョン・サイクスはパーフェクトだった>

●シン・リジィには数多くのギタリストが在籍してきましたが、今回は後期のギタリストについて教えて下さい。1980年から1982年にプレイしたスノーウィ・ホワイトはどんなミュージシャンだったでしょうか?

スノーウィは素晴らしいギタリストだった。ブルース・プレイヤーとして最高だったのに加えて、ハードにロックする才能も持っていた。彼のプレイを初めて聴いたのは数年前(1977年)、ニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンだったと思うけど、彼がピンク・フロイドのサポート・メンバーとして弾いているのを見て、すごく気に入ったんだ。新しいギタリストを加えるにあたって、スコットが彼のことを思い出した。それでリハーサルに招いたんだ。オーディションというほど“正式”なものではなく、ジャムでもやってみようってね。彼ほどのギタリストは当時のロンドンにいなかったし、他に選択肢は考えつかなかったね。彼が加入した当初は、すべてが順風満帆になるとみんな考えていた。でも徐々に問題が発生したんだ。シン・リジィはロックンロール・バンドだし、ある程度のユルさは許容する必要がある。でもスノーウィにはそれが出来なかったんだ。彼はとてもシリアスな人物だった。

●いわゆるロックンロール・ライフスタイルを避けるタイプでブルースの愛好家という点があなたとスノーウィに共通していましたが、打ち解けたりはしなかったのですか?

スノーウィと私はとても良好な関係だったよ。彼は素晴らしい人間でありミュージシャンだ。しばらく会っていないけど、それは単に機会に恵まれないからなんだ。あと誤解があるかも知れないけど、ブルースを好きなのはスノーウィと私だけではなかった。フィルもスコットもブルースのファンだったんだよ。サウンドチェックではいつもブルース・ジャムをやっていた。

●スノーウィはシン・リジィ時代で最も誇りにしているのはパーシー・メイフィールドのカヴァー「メモリー・ペイン」だと話していました(1981年のシングル「トラブル・ボーイズ」B面/現行デラックス・エディションCDには収録)。

ああ、私も「メモリー・ペイン」は好きだよ。あの曲がアルバムに入らず、シングルB面になってしまったのは残念だ。でもアルバム『反逆者』(1981)はヘヴィな曲が多かったし、浮いてしまったかも知れないね。

●1982年にはジョン・サイクスが加入、最後のアルバム『サンダー・アンド・ライトニング』(1983)を発表しています。

ジョンがシン・リジィに加入したのも、とても自然な流れだった。アルバムのプロデューサーがクリス・サンガリーディスに決まっていたけど、その時点で私たちはギタリストを探していたんだ。そうしたらクリスがタイガーズ・オブ・パンタンというバンドのジョンを推薦してきた。とても良いバンドだったし、ジョンは凄いギタリストだった。ゲイリー・ムーアからの影響もあったけど、元々シン・リジィとゲイリーのスタイルはピッタリ合っていたからね。ジョンは当時ニュー・ウェイヴ・オブ・ブリティッシュ・ヘヴィ・メタルのシーンで活動していて、ヘヴィなプレイをするギタリストだった。シン・リジィは“ニュー・ウェイヴ”でも“ブリティッシュ”でも“ヘヴィ・メタル”でもなかったけど、そのジャンルの代表バンドのひとつだった。だからヘヴィなギタリストを必要としていたんだ。ジョンはまさにパーフェクトだった。彼は元々シン・リジィのファンだったし、すぐにバンドの音楽性のツボを心得て、それにヘヴィ・メタルの要素を加えていったよ。

●『サンダー・アンド・ライトニング』のヘヴィ・メタリックな音楽性は賛否を呼びましたが、あなたはどう感じましたか?

『サンダー・アンド・ライトニング』はバンドの歴史を締め括るのに相応しい、爆発的なエネルギーを持ったアルバムだった。今でも誇りに思っているよ。初期からのファンには「ヘヴィ過ぎる!」って拒否反応を見せる人もいたんだ。でも私たちは前進していく必要があった。今では『サンダー・アンド・ライトニング』はシン・リジィのアルバムでも人気のある1枚だ。時の試練に耐えたアルバムだよ。フィルとジョンは親しい仲だった。いつもつるんでいて、年の離れた兄弟みたいだったよ。

●どうも有り難うございました。

昔の話は忘れてしまっていることが多いんだ。でも、シン・リジィとフィルの音楽が今でも世界中の人々に愛されているのは嬉しいね。いつかアライヴ・アンド・デンジャラスのライヴで日本に行けるのを楽しみにしているよ。

【2019年1月公開のインタビュー記事前編】

https://news.yahoo.co.jp/byline/yamazakitomoyuki/20190105-00110158/

【2019年1月公開のインタビュー記事後編】

https://news.yahoo.co.jp/byline/yamazakitomoyuki/20190111-00110865/

【シン・リジィ/フィル・ライノットのドキュメンタリーTV番組が海外で話題に】

https://news.yahoo.co.jp/byline/yamazakitomoyuki/20190122-00111971/

●Brian Downey's Alive and Dangerous公式サイト

https://www.briandowneysaliveanddangerous.com

●Brian Downey's Alive and Dangerous公式Facebook

https://www.facebook.com/briandowneysaliveanddangerous

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https://wardrecords.com/products/list.php?name=gary+moore

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音楽ライター

1970年、東京生まれの音楽ライター。ベルギー、オランダ、チェコスロバキア(当時)、イギリスで育つ。早稲田大学政治経済学部政治学科卒業後、一般企業勤務を経て、1994年に音楽ライターに。ミュージシャンを中心に1,200以上のインタビューを行い、雑誌や書籍、CDライナーノーツなどで執筆活動を行う。『ロックで学ぶ世界史』『ダークサイド・オブ・ロック』『激重轟音メタル・ディスク・ガイド』『ロック・ムービー・クロニクル』などを総監修・執筆。実用英検1級、TOEIC945点取得。

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