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【インタビュー後編】アル・ディ・メオラ、ザ・ビートルズとスーパー・ギター・トリオを語る

山崎智之音楽ライター
Al Di Meola / photo by Masanori Naruse

2020年3月13日にニュー・アルバム『アクロス・ザ・ユニバース』が世界同時発売となるアル・ディ・メオラへのインタビュー全2回の後編。

全曲がザ・ビートルズ・ナンバーというこのアルバム。前編記事に引き続き、さらに深くアルとザ・ビートルズの関わりについて訊いた。彼はまた伝説のスーパー・ギター・トリオの思い出、今後の展望なども話してくれた。

<ポール・マッカートニーとは隣人だった>

●姉上様のザ・ビートルズのレコードを聴いてから約10年後、あなたはチック・コリアとリターン・トゥ・フォーエヴァーで活動していたわけですが、志向する音楽性がどのように変化したのですか?

『アクロス・ザ・ユニバース』(2020年3月13日発売/ワードレコーズ)
『アクロス・ザ・ユニバース』(2020年3月13日発売/ワードレコーズ)

ザ・ビートルズが1970年に解散して、メンバー達はソロに転向したけど、私はあまり彼らのソロ作は好きではなかったんだ。徐々にジャズやフュージョンを聴くようになったし、自分でもプレイするようになった。当時イギリスやロサンゼルス、サンフランシスコからいろいろ、とても興味深い音楽が出てきた。それで私の音楽の趣味は花が咲くように拡がっていったんだ。でも、ここ10〜20年、ザ・ビートルズを聴き直して、なんて素晴らしい音楽だろうと改めて感じた。それで6、7年ぐらい前、ヨーロッパ・ツアーのオフのとき、彼らがレコーディングしたロンドンの“アビー・ロード・スタジオ”を訪れてみたんだ。自分のキャリアにおいて最高の瞬間のひとつだった。少年がディズニーランドに初めて行ったようなものだよ。それで絶対このスタジオでレコーディングする!と決意したんだ。

●ザ・ビートルズのメンバーと面識はありますか?

それは面白い話があるんだ。“アビー・ロード・スタジオ”で3曲をレコーディングした後、ニューヨークに戻ってアルバムを完成させるつもりだったけど、「ペニー・レイン」をレコーディングして、どうもしっくり来なかった。これは“アビー・ロード”に戻らなきゃな、と思ったよ。その時期、ニューヨーク州ハンプトンズに家を借りたんだ。離婚した後で、まだ今の嫁とは出会っていなかった。それで一人、ハンプトンズに引っ越して、ザ・ビートルズの曲のオーケストレーションとアレンジをすることにしたんだ。新聞に小さな広告が載っていて、業者に電話したら、「お隣は有名なポップ・ミュージシャンなんですよ」と言われた。「誰ですか?」と訊いたら、「ポール・マッカートニーさんです」と言われたんだ。

●凄い話ですね。

世の中には何百万という家があるのに、偶然ポール・マッカートニーの隣に引っ越すことになったんだ。宝くじが当たったような気分だよね(笑)。それでその年、ポールと知り合って、いろいろ話したよ。私の嫁とはまだ結婚していなくて、ガールフレンドだったけど翌年、『All Your Life』を完成させて、隣の家に届けに行った。ポールはとてもナイス・ガイだったよ。

●他のメンバーと会ったことはありますか?

私が19歳のとき、チック・コリアとニューヨークの“レコード・プラント”スタジオでアルバムをレコーディングしたんだ(『銀河の輝映』/1974年)。そうしたらスタジオの隣の部屋でジョン・レノンがレコーディングしていた。彼と会って話したりはしなかったけど、 レコーディングしている姿は何度も見たよ。

●そのときジョンがレコーディングしていたのは『ロックン・ロール』(1975)でしょうか?それで『アクロス・ザ・ユニバース』のジャケットでオマージュをしているのですか?

いや、そういうわけではない(笑)。あのとき彼がレコーディングしていたのは『心の壁、愛の橋』(1974)じゃないかな?

●これまでアストル・ピアソラやザ・ビートルズのカヴァー・アルバムを発表しましたが今後、 誰へのトリビュート作を作りたいですか?

誰だろうな...ピアソラへのトリビュート第2弾アルバムを既に作り始めているんだ。ピアソラ、ザ・ビートルズ、そして私自身の曲は、私のライヴの3つの重要な要素であり続けるだろう。それ以外だったら、自分の若き日の音楽、というアルバムを作る可能性はある。ザ・ビーチ・ボーイズやビリー・ジョエル...そんな若き日の歌のコレクションを作ってみたい。“Gems(宝物)”というタイトルにするかも知れない。あまりにビューティフルな思い出だからね。もうひとつのアイディアとしては、バッハの『フランス組曲』をやるかも知れない。6曲から成り立っている組曲なんだ。

Al Di Meola / photo by Masanori Naruse
Al Di Meola / photo by Masanori Naruse

<スーパー・ギター・トリオは最高だった>

●ジョン・マクラフリン、パコ・デ・ルシアと合体したスーパー・ギター・トリオについて、どんな思い出がありますか?

最高のトリオだった。3人それぞれがお互いにチャレンジし合って、相手に強い印象を与えようとしていたんだ。全員がベストな演奏をしなければならなかった。自分自身にとって可能であることを、さらに超える必要があったんだ。きっとお客さんは楽しんでくれたと思う。『フライデイ・ナイト・イン・サンフランシスコ〜スーパー・ギター・トリオ・ライヴ!』(収録1980年/発表1981年)は2ヶ月にわたるツアーの集大成だった。最終2公演がサンフランシスコで、金曜日と土曜日の夜だったんだ。凄まじいテクニック合戦だった。実は土曜のステージのテープを40年間ずっと持っているんだ。もしかしたら今年、公式リリースするかも知れない。金曜日とは異なった曲をプレイしているし、最高にエキサイティングな演奏内容だよ。

●スーパー・ギター・トリオは異なったラインアップもありましたね。ラリー・コリエルもそうだし...。

元々の発端は、私がパコと知り合ったことだった。1975年かな、チック・コリアとヨーロッパをツアーしていた時のことだ。誰もがフラメンコの凄腕ギタリストについて噂をしていた。それで地元のデパートに行って、売られていたパコのレコードを全部買ったんだ。ノックアウトされたよ。いつの日かぜひ一緒にやりたいと思った。それで『エレガント・ジプシー』(1977)を作るとき、私のレコード会社から彼のレコード会社に連絡してもらったんだ。パコはニューヨークまで来てくれて、一緒に「地中海の舞踏」をレコーディングした。この曲はビッグなヒット・シングルになって、インストゥルメンタルとしては珍しく、ポップのヒット・チャートに入ったんだ。その頃からトリオでやろうと話していた。でも私のスケジュールの都合で、最初のトリオはパコとジョン、そしてラリーとなったんだ。スーパー・ギター・トリオを企画したのは、ポール・マッカートニーのマネージャーでエージェントのバリー・マーシャルだった。彼は今では私のエージェントもやっているけれど、彼がパコとジョン、そして私のトリオを始動させたんだ。

●あなたはラリー、そしてビレリ・ラグレーンともスーパー・ギター・トリオを組みましたが今、再始動させるとしたら、誰に声をかけますか?

誰だろうなあ...ラリーとビレリとやったのは、パコとジョンとやった10年ぐらい後で、短期間のツアーをやったんだ。今もしスーパー・ギター・トリオをやるとしたら、若手ギタリストを迎えたいね。ヴィセンテ・アミーゴやマッテオ・マンクーゾとか...マッテオはシチリア出身の、すごくホットなギタリストだよ。異なったスタイルのギタリストと一緒にやることで、ハードに頑張ることになるし、新しいアイディアも生まれるんだ。それに私の音楽を聴くリスナーは、みんなギタリスト3人が共演するのを見るのが好きなんだよ(笑)。

【最新アルバム】

アル・ディ・メオラ

『アクロス・ザ・ユニバース』

2020年3月13日 世界同時発売

ワードレコーズ

GQCS-90868

日本レーベル公式サイト

https://wardrecords.com/products/list.php?name=al+di+meola

音楽ライター

1970年、東京生まれの音楽ライター。ベルギー、オランダ、チェコスロバキア(当時)、イギリスで育つ。早稲田大学政治経済学部政治学科卒業後、一般企業勤務を経て、1994年に音楽ライターに。ミュージシャンを中心に1,200以上のインタビューを行い、雑誌や書籍、CDライナーノーツなどで執筆活動を行う。『ロックで学ぶ世界史』『ダークサイド・オブ・ロック』『激重轟音メタル・ディスク・ガイド』『ロック・ムービー・クロニクル』などを総監修・執筆。実用英検1級、TOEIC945点取得。

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