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【インタビュー後編】キング・クリムゾン/ジャッコ・ジャクジク〜FOREVER“永遠”

山崎智之音楽ライター
Jakko Jakszyk / photo by Claudia Hahn

キング・クリムゾンのヴォーカリスト&ギタリスト、ジャッコ・ジャクジクへのインタビュー、全3回の最終回。

前編記事中編記事ではジャッコのキング・クリムゾンとの関わりについて語ってもらったが、彼はバンド外でもさまざまな活動を行ってきた。今回は彼のキャリアを通じての多彩なエピソードから幾つかをピックアップ、語ってもらった。

<ポップとプログレッシヴは矛盾しなかった>

●あなたは1981年に“チジック”レーベルからシングル「The Night Has A Thousand Eyes」を発表、1983年には“スティッフ”レーベルと契約するなど、パンクやパブ・ロックで知られるレーベルと交流がありましたが、当時のネオ・プログレッシヴ・ロック勢(ポンプ・ロック)と接点はありましたか?

いわゆるポンプ・ロックとはまったく関係がなかったんだ。別に意識して避けていたわけではなかった。単に彼らの曲を聴いたことがなかったんだよ。マリリオンのメンバー数人は近所に住んでいるし、知り合いだったけど、彼らの音楽を熱心に聴いていたわけではなかった。特定のバンドを挙げるつもりはないけれど、1980年代以降の“ネオ・プログレッシヴ”なバンドは、過去のプログレッシヴ・ロックの焼き直しのような印象を受けた。深みや拡がりを感じなかったんだ。

●1970年代のプログレッシヴ・ロックには魅力を感じていましたか?

うん、1960年代から1970年代のプログレッシヴ・ロックを聴くと、彼らの音楽的ルーツが実に多彩であることに驚かされる。ギタリストはジャンゴ・ラインハルト、キーボード奏者はフランツ・リスト...そんな影響を受けながら、ユニークな音楽性を築いていったんだ。ジェントル・ジャイアントのキーボード奏者(ケリー・ミネア)は王立音楽大学でエリザベスI世時代の音楽を学んでいたけど、そんな人がロックをやるから、面白いものが生まれた。イエスにしてもそうだ。全員が異なったバックグラウンドを持っている。プログレッシヴ・ロックだけを聴いてきた人がプログレッシヴ・ロックをやっても、あまり面白くはないんだよ。ちっとも“プログレッシヴ”でなく、リグレッシヴ(後ろ向き)なんだ。...とはいっても、私も彼らの音楽をほとんど聴いていないから、実は面白いことをやっている人もいるのかも知れないね。

●現代のプログレッシヴ・ロックであなたの興味を惹くアーティストはいますか?

エヴリシング・エヴリシングというイギリスのバンドがいる。彼らは若いバンドで、“プログレッシヴ”と呼ばれることもあるけど、誰とも似ていないし、オリジナルなことをやっている。ゴー・ゴー・ペンギンも刺激的だし、ルーシー・スワンという女性シンガー・ソングライターも新鮮だよ。16歳の息子に勧められたんだ。

●ところで1980年代にマイケル・ジャクソンとスタジオに入ったそうですが、具体的にどんな作業だったのですか?彼との音源は残されていますか?

マイケルとはレコーディングしたわけではないんだ。『BAD』(1987)のホーン・セクションの人たちと以前一緒にやったことがあって、ロサンゼルスのスタジオに遊びに行ったんだ。そうしたらマイケルとクインシー・ジョーンズがいて、しばらく話したんだよ。とりとめのない世間話で、「一緒に新バンドを結成しよう!」みたいなことにはならなかった(笑)。

●マイケル・ジャクソンはイエスのトレヴァー・ラビン、サム・ブラウンはピンク・フロイドなど、あなたが関わってきたアーティスト達は意外とプログレッシヴ・ミュージシャンと繋がりがありますね。

うん、1980年代ぐらいまではボーダーレスだったんだよ。当時の音楽が刺激的だったのは、ポップであることとオリジナルであることが矛盾しなかったことなんだ。ピーター・ゲイブリエルやケイト・ブッシュ、XTCのやっていたことは、両者を兼ね備えていた。当時、1970年代からやっていたプログレッシヴ・ミュージシャンは元気に活動していた。私はデイヴ・スチュワートと一緒にやっていた。彼もナショナル・ヘルスなどで、私にとってヒーローだった。それにヴァン・ダー・グラーフ・ジェネレイターのファンだったんで、デイヴ・ジャクソンに連絡を取って、シングル「Dangerous Dreams」(1983)を作ったりしたんだ。面白い時代だったよ。

(注:これはジャッコの記憶違い?デイヴ・ジャクソンはアルバム『Silesia』とシングル「The Night Has A Thousand Eyes」「Straining On Our Eyes」「Grab What You Can (Biez Co Mozesz)」<いずれも1982年>に参加しているが、「Dangerous Dreams」には不参加の様子)

King Crimson / photo courtesy of WOWOW Entertainment
King Crimson / photo courtesy of WOWOW Entertainment

<ゲイリー・ムーアの「エンプティ・ルームズ」でプレイした>

●現キング・クリムゾンのギャヴィン・ハリソンとは長い付き合いですが、彼とはどのように知り合ったのですか?

ギャヴィンと知り合ったのは1983年頃かな。2人ともロンドン北西部のワトフォード郊外の、近所に住んでいたんだ。私が出入りしていた楽器店の友人が、「凄いドラマーがいる」と教えてくれた。それがギャヴィンだったんだ。彼とは友達になって、一緒に音楽をやるようになった。サム・ブラウンの『ストップ』(1988)でも一緒にやったし、ディスリズミア(Dizrythmia)名義で2枚のアルバムも出した。ザ・キングス・オブ・オブリヴィオン名義で2人で出したアルバム『Big Fish Popcorn』(1987)はフランク・ザッパのパスティッシュみたいな感じだったよ。バンド名はピンク・フェアリーズのアルバムから取ったものだけどね。

●俳優/コメディアンのナイジェル・プレイナーがニール名義で出した『カンタベリー・パーティ / Neil's Heavy Concept Album』(1984)はどんな性質のアルバムでしたか?

長い話になるよ(笑)。1983年、私は“スティッフ・レコーズ”と契約したばかりだった。その時期、マイケル・アッテンボローという人から突然電話をもらったんだ。映画監督で俳優のリチャード・アッテンボロー卿の息子だよ。マイケルと親しくはなかったけど、ワトフォードで住んでいた家の同居人の一人が彼のガールフレンドだったんで、面識があったんだ。いきなり「演技は出来る?」と訊かれた。14歳のときからナショナル・ユース・シアターで演劇をやっていたし、「出来ますよ」と答えたら、彼のプロデュースする舞台劇でぴったりの役があると言われたんだ。それを契機に俳優業をやるようになって、エージェントも付くようになった。...私の話に追いついてきているかい?

●...はい、大丈夫です。

『Neil's Heavy Concept Album』ジャケット(ワーナーミュージック・ジャパン)
『Neil's Heavy Concept Album』ジャケット(ワーナーミュージック・ジャパン)

そのエージェントが持ってきた仕事が、最悪のTVシチュエーション・コメディ番組だった。『Roll Over Beethoven』(1985)という番組で、ナイジェル・プレイナーが出演していたんだよ。ナイジェルも音楽ファンだったし、友達になった。彼にデイヴ・スチュワートを紹介したりもしたよ。それでナイジェルは“ニール”というヒッピーのペルソナでアルバムを作ることになったんだ。それが『カンタベリー・パーティ』だった。トラフィックのサイケデリック・ナンバー「ホール・イン・マイ・シュー」をカヴァーして、全英チャートでヒットしたんだ。デイヴがプロデュースして、私やギャヴィンがプレイした。短期のツアーもやったよ。4公演しかやらなかったけど、ロンドンでの最終公演は“ハマースミス・オデオン”でやったんだ。ニールがステージ上で自殺して、そのキャラクターを封印するというものだった。デヴィッド・ボウイのジギー・スターダストのパロディでもあったんだろうね。

●ナイジェルがやったヘヴィ・メタル・バンド、バッド・ニュースには誘われませんでしたか?

誘われなかったけど、彼の出ていたTV番組『The Young Ones』の出演者とはみんな知り合いだったよ。彼らがバッド・ニュースをやったとき、何本もギターを貸したし、彼らが“ハマースミス・オデオン”でアイアン・メイデンの前座としてライヴをやったときもバックステージにいた。古い友達だよ。去年(2017年)、“プログレッシヴ・ロック・アワード”で“クリス・スクワイア・ヴァーチュオソ・アワード”というのを受賞したんだけど、プレゼンターがバッド・ニュースの一員だったエイド・エドモンドソンだったんだ。

●あなたはセッションでクリフ・リチャードやスウィング・アウト・シスターなどをバックアップしましたが、何かエピソードはありますか?

私は「さあ、スタジオ・ミュージシャンになるぞ!」なんて思ったことは一度もないんだ。プロデューサーのピーター・コリンズとよく一緒にやっていたんだ。「来週、時間はある?ギターを弾いてくれない?」と誘われて、ジャーメイン・スチュワートのレコードでプレイしたりした。ピーターは私の持ち味を理解してくれた。セッションをやるときも楽譜を渡されたりせず、デモを渡されて、「君だったらどう弾く?」と訊かれたよ。

●ピーター・コリンズはゲイリー・ムーアの1980年代の作品もプロデュースしていますね。

うん、実はゲイリーの「エンプティ・ルームズ」で、ノークレジットでキーボードを弾いているんだよ。後半で降りていくキーボードのパターンがあるよね?それは私が書いたんだ。

●「エンプティ・ルームズ」のキーボードはアンディ・リチャーズがクレジットされていますが、あなたがプレイしたのですか?

私がすべてのキーボード・パートを弾いてはいないから、アンディも参加していると思うけど、さっき言った部分は私だよ。

●クリフ・リチャードとのセッションはどのようにして実現したのですか?

キング・クリムゾンのサウンドマンをやっているクリス・ポーターは古い友人なんだ。彼は1980年代から1990年代はプロデューサーとして活動して、ジョージ・マイケルやテイク・ザットを手がけていた。テイク・ザットなんて日本では知っている人は少ないだろうけど...。

●イケメン男性アイドル・グループとして女性に人気があったし、ロビー・ウィリアムスがいたことでも知られていると思いますよ。

ははは、そうか。...で、私がクリスと一緒に作業したとき、ブライアン・ウィルソンばりのヴォーカル・オーヴァーダブをやったことがあった。それを彼は覚えていて、「今後クリフ・リチャードのレコーディングをするんだけど、あんな感じのトラックを作ってくれないか?」と頼んできたんだ。「今から2〜3時間空いてる?」と言われて、ちょうどタイミングが合ったんで、すぐスタジオに行ったよ。ヴォーカル・ブースでクリフ・リチャード卿と一緒にいるのは不思議な気分だった。幼児の頃、母親に連れられて彼の出演する映画を見に行ったことがあったからね。それがイギリスの子供にとっての日常だったんだ。

●クリフ・リチャードとはどんな会話をしましたか?

レコーディングのとき、コンピュータがクラッシュして、1時間ぐらい空き時間が出来たんだ。夏だったんで、「どこかバカンスに行くの?」という話をしたよ。「ええ、マヨルカに行きます。友達の別荘に滞在する予定ですが、その友達はあなたのヒット曲『キャリー』でサックスをプレイしたんですよ」と言ったら、「ああ、メル・コリンズのこと?」と言われて驚いたね。彼が自分の曲に参加したミュージシャンを記憶していることに、ちょっと驚いたよ。「あなたのレコードでベースを弾いたダニー・トンプソンも合流します」と言ったら、嬉しそうな表情をしていた。久しぶりに少年ファンに戻った気分だったね(笑)。

『Live In Newcastle December 8, 1972』ジャケット(WOWOWエンタテインメント)
『Live In Newcastle December 8, 1972』ジャケット(WOWOWエンタテインメント)

ライヴ・イン・ニューカッスル・1972年12月8日

キング・クリムゾン

WOWOWエンタテインメント IECP-10366

2019年6月5日発売

日本レーベル公式サイト http://wowowent.jp/artists/detail/41

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【ライヴ・レポート】キング・クリムゾン 2018年11月27日 東京・渋谷 オーチャードホールhttps://news.yahoo.co.jp/byline/yamazakitomoyuki/20181205-00106609/

音楽ライター

1970年、東京生まれの音楽ライター。ベルギー、オランダ、チェコスロバキア(当時)、イギリスで育つ。早稲田大学政治経済学部政治学科卒業後、一般企業勤務を経て、1994年に音楽ライターに。ミュージシャンを中心に1,200以上のインタビューを行い、雑誌や書籍、CDライナーノーツなどで執筆活動を行う。『ロックで学ぶ世界史』『ダークサイド・オブ・ロック』『激重轟音メタル・ディスク・ガイド』『ロック・ムービー・クロニクル』などを総監修・執筆。実用英検1級、TOEIC945点取得。

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