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【インタビュー後編】タイガース・オブ・パンタン/ロブ・ウィアーが語ったNWOBHM

山崎智之音楽ライター
Tygers 1981 / courtesy of Ward Records

2018年11月に36年ぶりの来日公演を行ったタイガース・オブ・パンタンのギタリスト、ロブ・ウィアーへのインタビュー後編をお届けする。

1970年代末から80年代初頭のイギリスを席巻したヘヴィ・メタル・ブームNWOBHM(ニュー・ウェイヴ・オブ・ブリティッシュ・ヘヴィ・メタル)の代表バンドのひとつだったタイガースが突き進んできた激動の時代について、ロブが証言してくれた。

インタビュー前編では1982年の春、タイガースから看板ギタリストのジョン・サイクスが脱退したところまで訊いたが、後編はその続きから『危険なパラダイス The Cage』(1982) への道のり、そしてNWOBHM全般の思い出を語ってもらおう。

<『危険なパラダイス』は2019年に再び聴かれるべきアルバムだ。ただ...>

●ジョン・サイクスはどのようにしてバンドを脱退したのですか?

ジョンはオジー・オズボーンのバンドのオーディションを受けるためにバンドを去ったんだ。ランディ・ローズが飛行機事故で亡くなったことで、後任の候補としてね。彼は何も言わずに去っていった。俺たちに一言言ってくれればよかったのに、ちょっと傷ついたな。もし彼が「オジーのオーディションを受ける」と言ってくれれば、快く送り出しただろう。でも彼も若かったし、タイガースを辞めることに罪悪感があったのかも知れない。まあ、その後になって彼とは話したし、もう何の問題もないよ。ただ当時は困り果てた。彼がオジーとのオーディションを受けた4日後、タイガースはフランスのヘッドライナー・ツアーを行うことが決まっていたしね。正直、最悪のタイミングだったよ。

●バンドの存続に関わる危機ですね。

急遽、近所のパブでペネトレーションというパンク・バンドでやっていたフレッド・パーサーというギタリストに声をかけたんだ。当時のマネージャーが彼のことを知っていて、彼だったら4日間でタイガースの曲目を覚えられるかもってね。ある意味フレッドはバンドを救ってくれたんだ。彼は優れたソングライターでもあった。彼はレコード会社からTEACの4トラック・レコーダーをせしめて、メンバー全員の家を行ったり来たりして、8、9曲のラフなアイディアを集めた。俺も幾つかアイディアを出したよ。でも『MCA』は外部ソングライターの曲をプレイさせることに固執していたんだ。

●うーん...。

『危険なパラダイス』ジャケット(ユニバーサル/現在発売中)
『危険なパラダイス』ジャケット(ユニバーサル/現在発売中)

ファースト・アルバム『ワイルド・キャット』はマイケル・ジャクソンやアース、ウィンド&ファイアー、デヴィッド・ボウイなどと並んでアルバム・チャートの上位に食い込んだんだ。『スペルバウンド』や『クレイジー・ナイツ』だって好セールスを記録した。クリエイティヴなグループとして成果を出しているのに、他人が書いた曲をやらなければならない理由が判らなかったね!まあ実際、『危険なパラダイス』のセールスは良かったんだ(全英チャート13位、バンド最大のヒット)。でもライヴでは決して盛り上がらなかったし、今では「ラヴ・ポーションNo.9」と「ロンリー・アット・ザ・トップ」ぐらいしかプレイしていない。

●ちなみに当時の『MCA』のA&R担当はチャーリー・エアーという人?

その通りだ。よく知っているね。彼についてどんな噂を聞いている(苦笑)?

●ニック・カーショウは『MCA』と契約して、当初ルバート・ハインをプロデューサーに迎えたかったのを、彼の横槍でピーター・コリンズを起用することになったと話していました。結果的にニックもピーターとの作業に満足していたそうですが。

まあ、一事が万事そういう感じだったんだよ。ピーター・コリンズは優れたプロデューサーだったけど、彼にとって、タイガースは実験動物だった。それまで彼はハード・ロック・バンドをプロデュースしたことがなかったけど、俺たちを足がかりに、ラッシュやクイーンズライクを手がけるようになったからね。俺たちでコツを掴んだんだと思うよ(笑)。それで、ピーターのマネージャーがピーター・ウォーターマンだったんだ。

●プロデューサー・チーム、ストック/エイトキン/ウォーターマンの一角として、1980年代のユーロビート・ブームを巻き起こし、カイリー・ミノーグやリック・アストレイをブレイクさせた人ですね。

うん、そうだよ。『危険なパラダイス』のセッションでロンドンの“マーキー・スタジオ”でリハーサルしていたら、扉が突然バーンッ!と開いて、知らない男が入ってきたんだ。彼は興奮した口ぶりで「よし、みんな!次のシングルは『パリス・バイ・エアー』にする。何百万枚も売れるぞ!初回限定でエッフェル塔の形をした銀のイヤリングを付けるんだ!」と言い出した。彼は自己紹介もしなかったし、みんな呆気にとられて「...あんた誰?」という感じだった。彼は良い人だったし、嫌いじゃなかったけど、そういうノリだったんだ。

●『危険なパラダイス』の仕上がりについてはどう感じましたか?

とても良いアルバムだし、2019年に再び聴かれるべき作品だと思う。当時まだハード・ロックでは新しかったエレクトロニック・ドラムスを取り入れたり、興味深いサウンドになっているよ。まあ、もっとオリジナル曲を提供したかったけどね。でも俺たちに与えられた外部ソングライターの曲の魅力を生かしながらうまくタイガース風にアレンジしたし、出来る範囲でベストを尽くしたよ。「メイキング・トラックス」はロッキーが書いたリフから発展させていった曲だけど、ピーター・コリンズも多大な貢献をしているし、ピーターのところのエンジニア、フィル・ハーディング がリミックスしたエクステンデッド・ヴァージョンは斬新だった。レコード会社も「これは良い!」と言って、12インチ・シングルとしてリリースしたんだ。ただ、それは俺たちではないと感じた。バンドとしてのアイデンティティを失いかけていたんだ。

●1970年代後半からヴァン・ヘイレンがキンクスの「ユー・リアリー・ゴット・ミー」、プレイング・マンティスが同じくキンクスの「オール・デイ・アンド・オール・オブ・ザ・ナイト」をカヴァーするなどしていますが、「ラヴ・ポーションNo.9」もそんな流れにあったのでしょうか?

そういう一種のトレンドがあったんだ。俺たちのちょっと後にはクワイエット・ライオットがスレイドの「カモン・フィール・ザ・ノイズ」をカヴァーしたりね。タイガースはカヴァー・バンドではなかったし、自分たちの曲で勝負したかった。

●セルフ・カヴァーEP『The Cage Sessions』を作るとしたら、どんな内容になりますか?

基本的に俺たちのオリジナル曲をレコーディングすることになる。よりハードなアレンジになるよ。まずはニュー・アルバムを作るし、かなり長期のツアーをするつもりだから、しばらく先のことになるだろうけどね。

Tygers Of Pan Tang 2018 / Pic by Takumi Nakajima
Tygers Of Pan Tang 2018 / Pic by Takumi Nakajima

<ジョン・サイクスとは3ヶ月に一度ぐらい連絡を取り合っている>

●『危険なパラダイス』に伴うツアーの後、あなたはバンドを脱退しますが、どんな事情があったのでしょうか?

アルバムとツアーが成功したことで、レコード会社から「次のアルバムはまだ?」とせっつかれた。それで曲を書き始めたんだ。5枚目のアルバムは『Square One』というタイトルになる筈だった。でもやはりわだかまりがあって、アルバムを完成させることなく、1984年の初めにバンドを脱退したんだ。それから1年ぐらいバンドは活動を停止していたと思う。俺とブライアン(ディック/ドラムス)はサージェントというバンドを始めていた。12曲のデモをレコーディングして、共同マネージャーだった人物とロンドンで『CBSレコーズ』と交渉したこともある。でも交渉はうまく行かず、サージェントは解散することになった。サージェントのテープは今でも持っているよ。リリースするつもりは今のところないけどね。その後ブライアンとジョン・デヴァリルが合流して、タイガース名義で活動することになったんだ。彼らは『ザ・レック・エイジ』(1985)と『バーニング・イン・ザ・シェイド』(1986)というアルバムを発表したけど、彼らがレコーディングで使ったブラックプールの“バーリン・スタジオ”のオーナーは、ジョン・サイクスの義理の父親だったんだ。彼はイビサ島でナイトクラブを経営していたけどイギリスに戻ってきて、スタジオをオープンしたんだよ。

●あなたが創始者の1人であるタイガース・オブ・パンタンというバンド名を他のメンバー達が名乗っていることについて、どう感じましたか?

全然気にならなかったよ。サージェントが失敗した後、俺はしばらく音楽ビジネスに幻滅して距離を置いていたんだ。ギターも売ってしまって数年間、弾くことがなかった。タイガースの2枚のアルバムは未だに通して聴いたことがないんだ。

●ニール・シェパードという、ジョン・サイクスとプレイもルックスも似たタイプのギタリストがいましたが、面識はありますか?

いや、一度も会ったことがないんだ。今、何をしているのかも知らない。

●初期タイガースのメンバー達とは交流がありますか?

ジョン・サイクスとは3ヶ月に一度ぐらい連絡を取り合っている。彼はロサンゼルスに住んでいるし、なかなか会えないけどね。ベーシストのロッキーともたまに連絡を取っているよ。俺のマネージャーのトムはブライアンともコンタクトを取っている。ジョン・デヴァリルとはSNSで繋がっているし、フレッド・パーサーはニューカッスルで俺の近所に住んでいるから、たまに話すよ。

●ジョン・デヴァリルとフレッド・パーサーがパーサー/デヴァリルとして久々に共演アルバムを発表しますね。

Purser Deverill『Square One』ジャケット(Bickee Music/現在発売中)
Purser Deverill『Square One』ジャケット(Bickee Music/現在発売中)

うん、聴いたよ。タイガースとは少し異なるけど、ギターもヴォーカル・ハーモニーもすごく良かった。彼らのアルバム・タイトルは『スクエア・ワン』なんだ。タイガースの発表されなかった5作目のアルバムのタイトルを使っているんだよ。そのことを聞いて、すごくエモーショナルになったね。

●ジョン・デヴァリルとフレッド・パーサーはタイガースが1987年に解散した後、どんなことをしていたのですか?

ジョンはカーディフで演劇を学んだんだ。1980年代終わりにはロンドンのウェストエンドでミュージカル『ブラッド・ブラザーズ』『サウンド・オブ・ミュージック』などに出演していたよ。TVCMソングも幾つか歌っているし、歌って踊れる俳優だ。フレッドはニューカッスルの“トリニティ・ハイツ”というスタジオをやっている。実はタイガースのニュー・アルバムはそこでレコーディングするんだ。フレッドにエンジニアしてもらうし、1曲ギター・ソロを弾いてもらおうと考えている。

●初代シンガーのジェス・コックスとは連絡を取っていますか?

いや、ずっと話していない。別に仲が悪いわけじゃないけど、話す機会がないんだ。ちなみにジェスは初代のシンガーではないんだよ。本当の初代シンガーはマーク・ブッチャーで、25回ライヴをやった。レコーディングはしなかったけどね。マークは今では大学講師で、音楽とはまったく関係ない著書もあるんだよ。3年ぐらい前、電車で偶然出くわしたことがある。「やあ久しぶり!覚えてる?」と訊かれて、しばらく考え込んでしまった。当時マークはロングヘアだったけど、ほぼ40年ぶりに会って、すっかり髪の毛がなくなっていたからね。

Tygers Of Pan Tang 2018 / Pic by Takumi Nakajima
Tygers Of Pan Tang 2018 / Pic by Takumi Nakajima

<タイガースはNWOBHMで最初のレコードを出したバンドのひとつ>

●2019年はニュー・ウェイヴ・オブ・ブリティッシュ・ヘヴィ・メタル(NWOBHM)の40周年となりますが、特別な思い入れはありますか?

俺たちがタイガースを始めた1978年頃、NWOBHMなんて呼び名はなかったんだ。まだパンクが流行っていたし、ハード・ロックをプレイするなんてオールドスクールだった。でも俺たちは構わなかった。オールドスクールだろうがレトロだろうが関係ない、好きな音楽をやるんだってね。そうしてプレイしていたら、音楽紙『サウンズ』のジェフ・バートンという編集者が“ニュー・ウェイヴ・オブ・ブリティッシュ・ヘヴィ・メタル”という名前を付けた。俺はタイガースがハード・ロック・バンドだと考えてきたし、ヘヴィ・メタルという枠はあまりしっくり来なかったんだ。もちろんメタル的な要素もあるだろうし、パンクの洗礼も受けてきた。

●タイガースはNWOBHMを代表するインディーズ・レーベルのひとつ“ニート・レコーズ”で初期の看板アーティストでしたね。

知っているかい?タイガースはNWOBHMで最初のレコードを出したバンドのひとつなんだ。タイガースの「Don't Touch Me There」のカタログ番号“NEAT03”だった。“01”と“02”はロックですらなかったんだ。“ニート”は設立されたばかりの新興レーベルで、方向性が定まっていなかった。サッカー応援歌だか何だかを出していたんだ。「Don't Touch Me There」が売れたことで、彼らはメタル・レーベルに専念することになって、レイヴンやヴェノムなどのレコードを出すようになったんだよ。

●ニューカッスルからはレイヴン、ヴェノムやホワイト・スピリット、フィスト、アヴェンジャー、ウォーフェア、ヘランバックなど数多くのメタル・バンドが巣立っていきましたが、ニューカッスルにメタル・バンドを生み出す土壌があったのでしょうか?

うーん、特にないんじゃないかな?NWOBHMはニューカッスルだけでなく、イギリス全土で同時多発的に生まれたと思う。バーミンガムはブラック・サバスやジューダス・プリーストを生んだし、ロンドンはアイアン・メイデン、シェフィールドはデフ・レパードとかね。

●ニューカッスルのバンドで交流があったのは?

レイヴンのギャラガー兄弟とは友達だったよ。数年前に彼らがニューカッスル公演をやったとき見に行った。そのとき少し話すことが出来た。2人ともアメリカにずっと住んでいて、マークはちょっとアメリカ風の発音が身についていたけど、ジョンの発音は純粋なジョーディー(ニューカッスル訛り)だった。

●初期ドラマーのロブ“ワッコ”ハンターはジャズのプロデューサーになって、グラミー賞を受賞したんですよね。

へえ、それは知らなかった!彼はいい奴だったよ。成功しているのは嬉しいね。

Tygers Of Pan Tang 2018 / Pic by Takumi Nakajima
Tygers Of Pan Tang 2018 / Pic by Takumi Nakajima

<NWOBHMのバンドは音楽を愛していた>

●タイガースはNWOBHM最高潮のレディング・フェスティバルに1980年と1982年と出演していますが、どんなことを覚えていますか?

1980年は上から5番目ぐらいだった。昼過ぎの出番だったよ。ジョン・サイクスは既に加入していたけど、シンガーはジェスだった。あれだけ大規模の野外フェスティバルに出演するのは初めてだったし、人の波に圧倒されたな。ホワイトスネイクがヘッドライナーで、スレイドが最高のショーを見せたのを覚えている。スレイドはポップ・チャートにヒット曲を幾つも送り込んでいるからメタルの観客に受け入れられるか判らなかったけど、本当にダイナマイトだったよ。誇張でなくドッカンドッカンと大ウケだった。その翌年かな、スレイドのノディ・ホルダーとは一晩飲み明かしたことがあるよ。彼のことは本当に大好きだしリスペクトしている。

●1982年のレディングは?

1982年にはアイアン・メイデンと一緒に出演したんだ。そのときはセミ・ヘッドライナーだった。レディングの“ホリデー・イン”ホテルに泊まっていて、朝食でブラックフットのリッキー・メドロックと一緒になったのを覚えているよ。その年のレディング・フェスは5万人近くが集まったんだ。

●1982年のレディングにはゲイリー・ムーアも出演しましたが、タイガースとゲイリー の交流はどんなものでしたか?

『スペルバウンド』をプロデュースしたクリス・サンガリーデスはゲイリー・ムーアのアルバムも手がけたことがあったんだ(『バック・オン・ザ・ストリーツ』(1978))。ジョン・サイクスはゲイリーの大ファンだったし、ぜひ会ってみたいと言い出した。それでクリスは電話をして、30分後ぐらいにゲイリーがスタジオに来てくれた。それから友達になったんだ。ロンドンのウォードア・ストリートで“マーキー・クラブ”の向かいにあった“サン・モリッツ・クラブ”で飲んだこともあったし、彼がタイガースの“マーキー”でのショーに飛び入りしたこともあった。『スペルバウンド』で彼に謝辞があるのは、機材を貸してもらったからなんだ。

●ゲイリーへの謝辞があるせいで彼がギターを弾いていると誤解されて、日本で発売されたゲイリーのコンピレーション盤『モア・クレイジー』(1981)に「タイガー・ベイ」が収録されたことがありました。

それは知らなかった(苦笑)。ゲイリーにギターを弾いてもらうことは考えすらしなかった。『スペルバウンド』は新生タイガースのアルバムだったし、もし思いついても頼まなかっただろうね。でも別の機会に、彼と一緒にプレイしてみたかった。彼は俺のヒーローの1人だし、亡くなってしまって悲しいよ。

●NWOBHMは1980年代初めには鎮静化してしまいましたが、タイガースにどんな影響を及ぼしましたか?

イギリスで起こったメタル・ブームは短期間のものだったし、メインストリームで成功を収めたバンドも少なかった。アイアン・メイデンやデフ・レパード、サクソンなどは例外だったよ。でも多くのバンドは成功を収めるためにやっていたのではなく、音楽が好きだからやっていたんだ。音楽を作って演奏することを愛していたんだよ。その多くは解散したり亡くなったりしたけど、生き残ったバンドは幾つもある。タイガースもそのひとつだよ。もう40年以上やっているなんて、想像を絶するね。あとどれぐらい出来るか判らないけど、楽しみながらやっていくつもりだよ。

●また日本でショーをやってくれるのを楽しみにしています。今度は36年も待たせないで下さい!

さすがにあと36年このバンドを続けるのは難しいと思うよ(笑)。次のアルバムを発表したら、すぐにでも日本に戻ってきたいね。東京はもちろん、大阪や名古屋でもショーをやりたい。俺たちこそ、日本でまたプレイするのを楽しみにしているよ。

Special thanks to:

Spiritual Beast

and Tom Noble.

音楽ライター

1970年、東京生まれの音楽ライター。ベルギー、オランダ、チェコスロバキア(当時)、イギリスで育つ。早稲田大学政治経済学部政治学科卒業後、一般企業勤務を経て、1994年に音楽ライターに。ミュージシャンを中心に1,200以上のインタビューを行い、雑誌や書籍、CDライナーノーツなどで執筆活動を行う。『ロックで学ぶ世界史』『ダークサイド・オブ・ロック』『激重轟音メタル・ディスク・ガイド』『ロック・ムービー・クロニクル』などを総監修・執筆。実用英検1級、TOEIC945点取得。

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