Yahoo!ニュース

【インタビュー前編】ブライアン・ダウニー(元シン・リジィ)、新たな旅立ちとゲイリー・ムーアとの絆

山崎智之音楽ライター
Brian Downey / courtesy of Brian Downey

シン・リジィはアイルランドから世界に打って出た初めてのロック・バンドだった。1970年代に「ヤツらは町へ」「脱獄」などの名曲を生んだ彼らはアイルランドの音楽の教科書にも登場するほどの国民的ロック・ヒーローであり、リーダーのフィル・ライノットが1986年1月4日に亡くなってからも、時代を超えて愛されている。

ブライアン・ダウニーは、そのシン・リジィの不動のドラマーとして、1983年のバンド解散まで活躍してきた。現在では地元ダブリンを活動拠点とする彼だが、2016年に新バンド、ブライアン・ダウニーズ・アライヴ・アンド・デンジャラス(以下アライヴ・アンド・デンジャラス)を結成。シン・リジィの名盤ライヴ・アルバム『ライヴ・アンド・デンジャラス』(1978)を再現するステージは各地で絶賛されている。

いよいよ本格的に動き始めたブライアンへのインタビュー全2回。前編では最近の活動、そして盟友だった故ゲイリー・ムーアとの思い出について訊いてみよう。

Brian Downey's Alive And Dangerous / courtesy of Brian Downey
Brian Downey's Alive And Dangerous / courtesy of Brian Downey

<アライヴ・アンド・デンジャラスで日本に戻りたい>

●最近はどんな音楽活動をしていますか?

2018年はアライヴ・アンド・デンジャラスでの活動が主なものだった。秋にはイギリスをツアーしたんだ。いろんな都市でプレイするのは楽しかったよ。ロンドン公演も盛り上がったし、2019年もツアーをたくさんやりたいね。

●アライヴ・アンド・デンジャラスはどんな性質のバンドなのでしょうか?

シン・リジィのアルバム『ライヴ・アンド・デンジャラス』からの曲を中心に、ステージで再現するバンドだよ。フィル(ライノット)と一緒にやってきた音楽には誇りと敬意を持っているし、出来る限りオリジナルに近い形でプレイしている。1970年代の正統なサウンドを捉えることを主眼としているんだ。それがシン・リジィのファンが求めているものだと信じている。インターネットでレビュー記事を読んだりすると、我々がやろうとしていることはある程度達成できているようだ。シン・リジィの音楽を楽しみながらプレイするのと同時に、自分にとっての新しいキャリアでもあるんだ。私はこれから若返りするわけでもないし、残りの人生を楽しみたい。ただもちろん、シリアスに取り組んでいるよ。

●ロック史上最高のライヴ・アルバムのひとつである『ライヴ・アンド・デンジャラス』の空気を再現するのは容易ではありませんよね?

Thin Lizzy『Live And Dangerous』ジャケット/現在発売中(ユニバーサル)
Thin Lizzy『Live And Dangerous』ジャケット/現在発売中(ユニバーサル)

もちろんそうだけど、バンドのメンバー達は魂のありったけを注ぎ込んでいる。彼らは『ライヴ・アンド・デンジャラス』を子供の頃から聴いて育ってきたし、シン・リジィの音楽を熟知している。私よりも詳しいぐらいだよ(笑)。初めて彼らとリハーサルをしたとき、少し心配だったんだ。うまく行くだろうか?...ってね。でもそれは杞憂だった。実際一緒にプレイしてみると、曲を途中でストップすることは一度もなかったんだ。一気に6、7曲プレイしてしまったよ。正直、驚いたね。彼らもシン・リジィの音楽に対してシリアスだ。私自身、彼らに引っ張られて、パワフルに叩く衝動とエネルギーが生まれるんだ。2017年、2018年を通じてライヴをやって、本当に楽しかった。既に2019年のツアー・スケジュールも決まりつつあるし、ポジティヴな気分だよ。ぜひ日本でもアライヴ・アンド・デンジャラスとしてライヴをやりたいね。日本には最高の思い出しかない。 1994年、シン・リジィ・トリビュート・ツアーから25年行っていないし、戻りたくて仕方ないんだ。

●アライヴ・アンド・デンジャラスのメンバー達とはどのように知り合ったのですか?

ギタリストのジミー・クープ(元アンドリューWKバンド)を通じて知り合ったんだ。ジミーは毎年ダブリンで行われているフィルへのトリビュート・イベント“ヴァイブ・フォー・フィロ”にいつも参加しているからね。彼がギタリストのブライアン・グレイスを紹介してくれて、一緒に何かやろうという話が持ち上がった。それにザ・ロウ・ライダーズというシン・リジィのカヴァー・バンドのマット・ウィルソン(ヴォーカル、ベース)とフィル・エドガー(ギター)が合流して、バンドが出来上がったんだ。当初はバンド名はなくて、ダブリン周辺でショーを何回かやっていて、ブルース・スタンダードとかもプレイすることがあったけど、お客さんが求めるのは『ライヴ・アンド・デンジャラス』からの曲だった。だったら彼らの求めるものを提供しようと思ったんだ。今のバンドはラインアップも安定しているし、良い仕上がりだよ。スタジオで新曲のデモも作り始めて、4曲を録っている。近いうちにアルバムをレコーディングするつもりだ。オリジナル曲が中心で、カヴァー曲も入れるかも知れない。

<ゲイリー・ムーアは自分の人生における親友だった>

●ボブ・デイズリーがゲイリー・ムーアに捧げるトリビュート『ムーア・ブルース・フォー・グリーニー』をプロデュース、ゲイリーに所縁のあるさまざまなアーティストが参加しましたが、ボブはあなたが体調が悪くて参加出来なかったと言っていました。今はもうお元気ですか?

『Moore Blues For Gary』ジャケット/現在発売中(ワードレコーズ)
『Moore Blues For Gary』ジャケット/現在発売中(ワードレコーズ)

体調を崩していた時期もあったけど、今はいたって健康だよ。どうも有り難う。ボブはトリビュート・アルバムへの参加についてメールしてきたというけど、実は当時見ていなくて、後になって知ったんだ。一時期パソコンをチェックすることが出来なくて、受信箱に膨大な数のメールがあったから、見落としてしまったのかも知れない。実はボブ以外、誰がアルバムに参加しているのかも知らないんだ。シン・リジィのメンバーは誰か参加しているの?

●ジョン・サイクスが「スティル・ゴット・ザ・ブルース」を弾いています。ボブはブライアン・ロバートソンにも参加を打診したそうですが、何かの理由で実現しなかったそうです。

私が長いキャリアで学んだのは、マネージャーを介すると実現するものも実現しなくなるということだ(苦笑)。ミュージシャン本人に直接コンタクトを取った方が話が早いし、実現しやすいよ。もちろんビッグ・マネーが絡むとそういう訳にもいかないんだろうけどね...。アルバムがどうなったのかも、実は知らない。ダブリンにいると、あまり情報が耳に入ってこないんだ。ゲイリーに捧げるアルバムなんだし、成功して欲しいね。

●ゲイリーはあなたのブルース知識に多大な敬意を持っていて、“B.B.キングのあらゆるギター・ソロをハミング出来る世界唯一のドラマー”だと絶賛していました。さらにあなたが1960年代のバンド、シュガー・シャックでB.B.の「ユー・アプセット・ミー・ベイビー」をプレイしていたのを聴いて感銘を受けたり、キャブ・キャロウェイ/ジミー・ウィザースプーンの「イヴニン」をレコーディングすることをゲイリーに提案したのもあなただったとか?

懐かしいね(笑)。ゲイリーに「B.B.のあの曲のソロ、どんな感じだっけ?」と訊かれて、鼻歌で歌ったのは覚えているよ。“あらゆる曲”というのは大袈裟だけどね!

Brian Downey / photo by Mick Burgess
Brian Downey / photo by Mick Burgess

●ゲイリーとはどのようにして出会ったのですか?

初めてゲイリーと会ったとき、彼は16歳、私は17歳だった。1967年かな、まだ2人とも若かった。私はダブリンでシュガー・シャックをやっていて、ベルファストにライヴ遠征で行ったんだ。そのときの対バンがゲイリーのいたプラットフォーム・スリーというバンドだった。それまでゲイリーのことはまったく知らなかった。当日もサウンドチェックを聴いたりしなかったし、シュガー・シャックの前にプラットフォーム・スリーがステージに上がって、彼のプレイを初めて耳にしたんだ。私とシュガー・シャックの仲間たちは楽屋にいたけど「えっ?」と驚いて、ステージを見に行った。それほどゲイリーは凄かったんだ。その場にいたお客さんも凍り付くほどだった。シュガー・シャックのギタリストだったダーモット・ウッドフルも衝撃を受けていたよ。ダーモット自身、とても良いギタリストだったんだ。でもゲイリーはレベルがまったく違っていた。彼らのショーは25分ぐらいだったけど、全編見入ってしまったよ。ショーの後、ゲイリーと少し話した。ダブリンにもライヴをやりにおいでよ、と彼に勧めたのを覚えている。そうしたらビールでも奢るってね。

●それから数ヶ月後、ゲイリーはスキッド・ロウに加入してダブリンに来ますが、それはあなたの助言によるものだったのでしょうか?

いや、彼自身の決断だよ。私にそれほどの影響力はない(苦笑)。ただ、ひとつのきっかけになったかも知れないね。初めて会ってから、しばらくゲイリーとは会う機会がなかったんだ。あるときフィルと話していた。彼とはかつてブラック・イーグルスというバンドでやったことがあってその後、彼はスキッド・ロウに加入していた。スキッド・ロウのギタリストだったバーナード・チーヴァースがバンドを脱退することになって、誰か良いギタリストはいない?と訊かれたんだ。「こないだベルファストに行ったとき、ゲイリー・ムーアという凄いギタリストがいた」と教えた。偶然その次の週、ゲイリーは別のバンドで代役ギタリストとしてダブリンに来ることになったんだ。ベルファスト出身のザ・メソッドというバンドだった。それでスキッド・ロウのリーダーだったブラッシュ・シールズとフィルはショーを見に行って、感銘を受けたようだった。彼らはそのときゲイリーをバンドに誘ったそうだけど、ゲイリーはいったんベルファストに戻ってしばらく考えてから、結局ダブリンに来ることにしたんだ。

●ダブリンでのゲイリーとあなたの交流はどのようなものでしたか?

ゲイリーとはすごく親しくなったんだ。しょっちゅう飲みに行っていたよ。当時はお互い別のバンドでプレイしていたし、一緒にライヴをやる機会はあまりなかったけどね。スキッド・ロウのドラマーが急病になったとき、2回ぐらい私が代役としてプレイしたことがあった。それでスキッド・ロウに正式加入してくれと頼まれたことはあったけど、シュガー・シャックでブルースをプレイするのが楽しかったし、スキッド・ロウのような音楽を積極的にやりたいとは思わなかったんだ。ゲイリーは自分のショーがないときはよく私のバンドを見に来たよ。それから40年間、彼とは何度も一緒にツアーしたし、私の人生における親友の一人だった。

●ところでゲイリーやブラッシュ・シールズはフィル・ライノットと長い付き合いだったにも拘わらず、何故ずっと彼の名字Lynottを“リノット”と呼んでいたのでしょうか?

本当の発音が“ライノット”なのは間違いないんだ。フィル自身、「俺はウソをつかない。名前がLie Not ライ・ノットだからな」とよく言っていたからね。フィルのお母さんも、フィルの叔父さんも、いつも“ライノット”と名乗っている。ゲイリーもブラッシュもそれを知らない筈がないし、何故“リノット”と呼んでいたか判らない。1960年代からずっとブラッシュは“ライノット”と呼んでいたけど、比較的最近のインタビュー映像を見たら何故か“リノット”と発音していて、ちょっと驚いたよ(笑)。これは私の憶測だけど...アイルランドではフィルは国民的ロック・ヒーローだったから、誰もが彼が“ライノット”であることを知っていた。でもイギリスでは誤って“リノット”と発音されることもあったんだ。ゲイリーはイギリス暮らしが長いから、イギリス人に判りやすいように“リノット”と発音していたのかもね。彼はフィルの名字が“ライノット”であることは当然知っていたよ。

後編ではブライアンにブルースの原点、そしてゲイリー・ムーアとの交流についてさらに語ってもらおう。

●Brian Downey's Alive and Dangerous公式サイト

https://www.briandowneysaliveanddangerous.com

●Brian Downey's Alive and Dangerous公式Facebook

https://www.facebook.com/briandowneysaliveanddangerous

音楽ライター

1970年、東京生まれの音楽ライター。ベルギー、オランダ、チェコスロバキア(当時)、イギリスで育つ。早稲田大学政治経済学部政治学科卒業後、一般企業勤務を経て、1994年に音楽ライターに。ミュージシャンを中心に1,200以上のインタビューを行い、雑誌や書籍、CDライナーノーツなどで執筆活動を行う。『ロックで学ぶ世界史』『ダークサイド・オブ・ロック』『激重轟音メタル・ディスク・ガイド』『ロック・ムービー・クロニクル』などを総監修・執筆。実用英検1級、TOEIC945点取得。

山崎智之の最近の記事