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【インタビュー前編】JAPANESE ASSAULT FEST記念/ザ・ロッズが語るメタル秘話

山崎智之音楽ライター
THE RODS / Pic by Takumi Nakajima

日本のヘヴィ・メタル・マニアが集結する鋼鉄の祭典『JAPANESE ASSAULT FEST 18』が2018年11月3日(土)&4日(日)、東京・吉祥寺 CLUB SEATAで開催される。

第7回を迎える晩秋のメタル・フェス、今回のヘッドライナーは初日“THRASH METAL DAY”がフロットサム&ジェットサム、2日目“HEAVY METAL DAY”がタイガーズ・オブ・パン・タンという布陣。これまでオンスロート、ガールスクール、セイタン、エンフォーサー、ブリッツクリーグらが出演してきたが、2デイズでそれぞれ異なるヘッドライナーを迎える2018年のイベントは、歴代最強のラインアップといえる。さらにヴァイオレイター、UNITED、SOLITUDE、HELL FREEZES OVER、IN FOR THE KILLらの出演も決まっている。

『JAPANESE ASSAULT FEST 18』開催を記念して、前年(2017年)出演したザ・ロッズのドラマー、カール・キャネディへのインタビュー記事を全2回でお届けしよう。

1980年にニューヨークで結成。イギリスにおける一大メタル・ブーム(N.W.O.B.H.M.)やスラッシュ・メタルの黎明期など、ヘヴィ・メタルが波乱に満ちた“衛兵交替の時代”の真っ只中を生きたカールの言葉には、歴史の証人ならではの重みがある。

まず前編ではカールの音楽人生の原点からザ・ロッズでの船出までを語ってもらった。

<2017年の来日公演>

●『JAPANESE ASSAULT FEST 17』はザ・ロッズにとって初来日ライヴでしたが、それ以外のプライベートやビジネスなどで日本に来るのも初めてですか?

うん、これが初めてだよ。日本のファンがどう反応するか、まったく想像もつかなかった。知人に「日本のファンは静かで、拍手もしない」とか言われていたけど、とんでもない大ウソだったよ。とにかく凄まじい盛り上がりで、驚いたのと同時に、すごく嬉しかった。

Carl Canedy / Pic by Takumi Nakajima
Carl Canedy / Pic by Takumi Nakajima

<ルーツとブルー・チアー>

●あなたがドラムスを始めたきっかけを教えて下さい。

4歳半のときにドラムスをやりたいと思ったんだ。とにかく何かをぶっ叩きたくてね。でも実際に始めたのは13歳のときだった。11歳のときに父親が亡くなって、母子家庭になった関係で、ドラム・キットを買う余裕なんてなかったんだ。それで13歳のとき、ローンを組んでもらって、毎月俺がバイトで得た金で支払いをした。最初はポップのヒット曲に合わせてプレイしていたんだ。ディック・クラークが司会のTV番組『アメリカン・バンドスタンド』が好きだった。1960年代の話だよ。あの番組では1曲を1分半ぐらいしか流さないから、食い入るようにテレビ画面を見ていたよ。ドラマーが映るのはせいぜい20秒だったからね。どんなプレイをしているか、どんなキットを使っているか...ある時、ブルー・チアーが出演したんだ。「サマータイム・ブルース」で、テレビのブラウン管が吹っ飛ぶかと思った。これこそが俺のやりたいことだ!と確信したんだ。後にドラマーのポール・ウェイリーにこう言ったよ。「あなたみたいに叩きたくて、スティックを何本も折りましたよ」ってね(笑)。

●ずっと後になって、ブルー・チアーの再結成アルバム『The Beast Is Back』(1984)をプロデュースしましたが、それはどのような経験でしたか?

ブルー・チアーが再結成して『メガフォース・レコーズ』と契約して、アルバムを出すことになったんだ。俺は『メガフォース』と何度も仕事をしていたし、オーナーのジョニーZ(=ジョン・ザズーラ)から彼らのアルバムをプロデュースして欲しいというオファーがあったんだ。あんなデカい音を出すから、会う前は少し警戒したけど、みんな良い人たちだったよ。ディッキー・ピータースンとは友人になって、その後、俺がカリフォルニア州に行くときは連絡を取って、会っていた。ポゼスドの『Beyond The Gates』(1986)をプロデュースしたときもカリフォルニア州の『プレイリー・サン』スタジオでレコーディングしたから、声をかけてみた。ディッキーはガンで亡くなってしまった(2009年)けど、その功績は未だに正しく評価されたとは思わない。すべてのヘヴィ・メタル・バンドが彼に感謝するべきだよ!

●『The Beast Is Back』はブルー・チアーの歴史においてどんな位置を占めるアルバムでしょうか?

『The Beast Is Back』はブルー・チアーの音楽を1980年代のサウンドで再現した作品だった。それが必ずしもうまく行ったとは思わない。彼らの全盛期を知るリスナーだったら、「真のブルー・チアーはこんなものじゃない」と思うかもね。ただ、バンド復活に向けての第1歩だったことは確かだ。その後(1988年)、俺の友人のダック・マクドナルドがギタリストとして加入して、マネージメントも担当するようになった。それでバンドは再び勢いに乗ったと思う。

●ブルー・チアーのポール・ウェイリー以外に、ドラム・ヒーローはいましたか?

カーマイン・アピスに憧れていた。だから19歳のとき、カーマインがドラム・レッスンをやっていると知って、入門したんだ。それ以前にも別のドラム講師からレッスンを受けたことがあったけど、「激しく叩きすぎ。もっと落ち着いて」と言われた。激しく叩きたくてドラムスを始めたんだから、その講師とは縁を切って。しばらく自己流でプレイしていた。カーマインは譜面の読み方も教えてくれたし、常にポジティヴだった。「それはダメ」と言うのではなく、「うん、良いね。もっと掘り下げてみよう」という感じだったんだ。

●ドラミングのテクニックはどのように習得しましたか?

俺のテクニックはトニー・ウィリアムス直伝なんだ。彼から学んだことを誇りにしているよ。1974年から75年頃かな、トニー・ウィリアムス・ライフタイムの後だと思う。友人でギタリストのビリー・ヒルフィガーはニューヨークの楽器店『マニーズ・ミュージック』で働いていて、ある日「トニー・ウィリアムスが生徒を取るらしいよ」と言ってきた。それで紹介してもらって、しばらくレッスンを受けたんだ。トニーと俺はバックグラウンドがまったく異なっていた。ほとんど、アインシュタインと数学の話をするようなものだった。ただ、彼は音楽のテクスチャーやレイヤーの組み立て方など、さまざまなことを教えてくれた。彼にはトラディショナル・グリップでスティックを持つことも教わったよ。ジャズ的なスタイルだから、当初は難しくて出来なかった。でも、それをマスターすることで、自分の表現の幅が拡がったんだ。その後、ニューヨークの『ボトム・ライン』にトニーのショーを見に行ったら、一度もトラディショナル・グリップを使わなかった。それで次のレッスンでそれを指摘したら、微笑んで「必ずしも使わなくても、知っておくことで幅が拡がる」と言われた。アンヴィルのロブ・ライナーもトラディショナル・グリップを使っている。ただ、ザ・ロッズのステージでは俺は主に変形フレンチ・グリップで叩いているよ。

THE RODS / Pic by Takumi Nakajima
THE RODS / Pic by Takumi Nakajima

<マノウォー>

●あなたがマノウォーのオリジナル・ドラマーだったと聞きましたが、バンドはどのようにして結成されたのですか?

ザ・ロッズを結成するずっと前、俺はケラコスというバンドでやっていたけど、解散してしまって、ディーン・ブラザーズでプレイしていた。彼らはニューヨーク州イサカの音楽シーンでは支持されていた。それで俺もいっぱしのプロ・ドラマーとして認められるようになったんだ。元々、ジョーイ・ディメイオとデヴィッド“ロック”フェインステインがサンダーというバンドをやっていた。それに俺が合流したんだ。数曲デモをレコーディングしたよ。その後、ジョーイはロス・ザ・ボスとマノウォーを結成して、デヴィッドもザ・ロッズを結成することになった。俺は両方のバンドに在籍する形になったんだよ。それで俺はマノウォーのファースト・アルバム『地獄の鎮魂歌 Battle Hymns』(1982)のメイキングに関わっている。エリック・アダムスは素晴らしいシンガーだったし、きっと凄いバンドになると思ったよ。それとほぼ同時に、ザ・ロッズもレコード契約を獲得したんだ。そうなると、どちらかのバンドに専念する必要が生じた。それでザ・ロッズでやっていくことにしたんだ。ザ・ロッズを選んだのは、デヴィッドと親しかったからだった。どっちが成功するかとか、まったく頭になかったな。正直なところ、ビジネス的にはどちらのバンドも成功しないと考えていたよ(笑)。

●マノウォーの一員としてライヴやレコーディングを行いましたか?

マノウォーとライヴをやることはなかった。1度やる機会はあったけど、バンドに留まるつもりがなかったし、辞退することにしたんだ。だからフンドシでステージに立ったことはないよ(笑)。動物の毛皮を着込んだり、自分の血で契約書にサインしたりもしなかった。ただ、それを馬鹿にするつもりはない。マノウォーというバンドを売り出すのに、有効なパブリシティだったと思う。俺が参加した最初期のマノウォーのデモも存在するよ。ネットで聴くことが出来るけど、いつかきちんとリミックス/リマスターして公式にリリースしたいね。『地獄の鎮魂歌』ではドニー・ハムジックがドラムスを叩いているけど、俺が叩いたデモ・テイクのプレイをかなり踏襲している。

<ニューヨーク>

●ザ・ロッズとして活動を開始したとき、ニューヨークで同志といえるバンドはいましたか?

いや、せいぜいマノウォーぐらいで、他にハード・ロック/ヘヴィ・メタルのバンドはいなかったよ。ザ・ロッズがデビューした時期は、まだディスコ・ブームが続いていたんだ。俺たちがライヴをやると、最初は15人ぐらいいたお客さんが、20分後には全員帰って、空っぽになっていたよ。ライヴを終えてクラブの玄関から出ると、ホームレスに「お前の音楽はクソだ」と言われた。そんなことを言われて、俺は誰の指図も受けないし、自分の信じる音楽をやろう!...と強い意志を持ったんだ。そうしてザ・ロッズはライヴを続けて、徐々にニューヨーク周辺でファン層を築いていった。

●ニューヨークといえば、『CBGB』や『マックス・カンザス・シティ』などの伝説的なクラブでもプレイしましたか?

いや、一度もなかった。去年、ブルックリンの『セイント・ヴァイタス』バーでやったけどね。俺たちはニューヨークといっても北部だったし、マンハッタンやダウンタウンでライヴをやることは少なかったんだ。

●ルー・リードやブロンディといったニューヨークのロックの名士たちと面識はありましたか?

まったくない。たぶんすれ違ったことすらないよ。ニューヨーク出身のバンドだったら、『パラマウント・シアター』でトゥイステッド・シスターの前座をやったことがあるけどね。ディー・スナイダーはただでさえ背が高いのに、分厚いブーツを履いて、2メートル以上の大巨人に見えた。初めて会ったとき、「インタビューで俺たちのことをコケにしたんだって?あぁン?」と言われて一瞬ビビったけど、ジョークだったんだ。1970年代終わりから1980年代初め、ニューヨーク出身のハード・ロック・バンドということで、トゥイステッド・シスターとザ・ロッズは常に比較されてきたんだ。実際には俺たちがニューヨーク州の北部、彼らはニューヨーク・シティのバンドで、自動車で3時間半ぐらい離れていたから、さほど同郷のバンドという感じではなかったんだよ。

●ザ・ロッズとトゥイステッド・シスターは共に本国アメリカよりも1970年代終盤、イギリスのメタル・ブーム(ニュー・ウェイヴ・オブ・ブリティッシュ・ヘヴィ・メタル=N.W.O.B.H.M.)で受け入れられましたが、当時のことをどのように記憶していますか?

ザ・ロッズは自主制作でアルバム『Rock Hard』(1980)を1,000枚プレスした。それから少しずつバンドの名前が拡がっていって、マネージャーを雇うことにした。エルフのキーボード奏者だったダグ・セイラーが何人かマネージャーやエージェントを紹介してくれて、彼らを通じてイギリスの『サウンズ』紙に記事が載ったんだ。絶賛されていて、記事を読んでビックリしたよ。当時はインターネットもSNSもない時代で、イギリスで何が起こっているかなんて知らなかったし、N.W.O.B.H.M.がどんな意味かも判らなかった。ヌウゥーブム?何だそれ?って感じだった。元々イギリスのバンドは好きで、ジューダス・プリーストやシン・リジィのファンだったけどね。イギリスで最初にリリースされたアルバムは『ロッズ・ファースト/摩天楼の使者』(1981)だった。『Rock Hard』から2曲をカットして、新録曲を加えたアルバムだよ。確かリミックスとかもしていない筈だ。それから『ワイルド・ドッグス』(1982)をレコーディングした後、アイアン・メイデンと1ヶ月イギリスをツアーして、それからミックスして完成させたんだ。

●ライオットもニューヨーク出身で、第1回『モンスターズ・オブ・ロック』フェスティバルに出演するなど、イギリスと縁が深いバンドでしたね。

そう、ライオットは俺たちより数年前に出てきたバンドだった。ただ、彼らもニューヨーク・シティのバンドだったから、俺たちとはあまり接点がなかったんだ。

THE RODS / Pic by Takumi Nakajima
THE RODS / Pic by Takumi Nakajima

<ロニー・ジェイムズ・ディオとレミー>

●デヴィッド“ロック”フェインステインがロニー・ジェイムズ・ディオ(レインボー、ブラック・サバス、ディオ他)のいとこだったことは、ザ・ロッズの成功の後押しになりましたか?

正直、まったく関係なかったと思う。“ロニー・ジェイムズ・ディオのいとこがいるバンド!”と宣伝されたわけでもないし、ロニーに音楽業界のビッグネームを紹介してもらったわけでもない。ただロニーは素晴らしいシンガーだし、寛大な人物だった。デヴィッドはロニーがいたエルフのファースト・アルバム『エルフ』(1972)でプレイしている。彼はエルフのツアーにも参加していたし、プロとしての場数を踏むことが出来たのは少なからずロニーのおかげだった。

●あなたはロニーと親しかったですか?

アマチュア・バンド時代、ロニーの自宅のガレージで練習していたんだ。それでロニーのことも知っていたし、挨拶はしていた。エルフのライヴは学生時代に何度も見ていたよ。当時、多くのアマチュアやセミプロ・バンドはダンス・バンドだったけど、彼らはコンサート・バンドだった。単なるBGMでなく、自己主張をしていたんだ。

●アルバム『極悪ライヴ No Sleep 'Til Hammersmith』(1981)が全英チャート1位を獲得するなど、イギリスのメタル・ブームにおいてモーターヘッドは絶大な支持を得ていましたが、ザ・ロッズは彼らと接点がありましたか?

モーターヘッドのツアー・サポートをしたことがあるよ。ライヴ・アルバム『The Rods Live』(1983)の一部はそのときの音源なんだ。レミーは前座バンドやファンに対してもオープンで、スターぶることがなかった。常に地に足の着いた人だったよ。レミーはいつだってレミーだった。1980年代でもプリティになろうとしなかった。自分を偽ることがなかったんだ。だからこそ誰もが彼に敬意と愛情を抱いていたんだ。

後編ではカールの初期スラッシュ・メタルへの貢献、そしてザ・ロッズの今後などについて掘り下げてみよう。

●SPIRITUAL BEAST PRESENTS: JAPANESE ASSAULT FEST 18

2018年11月3日(土)・4日(日)/東京・吉祥寺CLUB SEATA

11/3 (Sat) “THRASH METAL DAY”

FLOTSAM AND JETSAM (USA)

VIOLATOR (BRAZIL)

UNITED (JPN)

IN FOR THE KILL (JPN)

AMKEN (GRC)

11/4 (Sun) “HEAVY METAL DAY”

TYGERS OF PAN TANG (UK)

ASOMVEL (UK)

SOLITUDE (JPN)

SCREAMER (SWE)

HELL FREEZES OVER (JPN)

Info: Spiritual Beast / スピリチュアル・ビースト

http://spiritual-beast.com/

JAPANESE ASSAULT FEST 18 flyer / courtesy of Spiritual Beast
JAPANESE ASSAULT FEST 18 flyer / courtesy of Spiritual Beast
音楽ライター

1970年、東京生まれの音楽ライター。ベルギー、オランダ、チェコスロバキア(当時)、イギリスで育つ。早稲田大学政治経済学部政治学科卒業後、一般企業勤務を経て、1994年に音楽ライターに。ミュージシャンを中心に1,200以上のインタビューを行い、雑誌や書籍、CDライナーノーツなどで執筆活動を行う。『ロックで学ぶ世界史』『ダークサイド・オブ・ロック』『激重轟音メタル・ディスク・ガイド』『ロック・ムービー・クロニクル』などを総監修・執筆。実用英検1級、TOEIC945点取得。

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