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【インタビュー】フェイス・ノー・モア、デビュー作『ウィー・ケア・ア・ロット』を振り返る

山崎智之音楽ライター
Faith No More 1985

フェイス・ノー・モアが1985年に発表したデビュー・アルバム『ウィー・ケア・ア・ロット』が30年の月日を経て2016年8月、 “デラックス・バンド・エディション”として蘇った。

現在のラインアップとは異なり、チャック・モズレー(ヴォーカル)とジム・マーティン(ギター)が参加するこのアルバムだが、ヘヴィなギターと荘厳で神秘的なキーボード、ラップにも通じるリズミカルなヴォーカルなど、1990年代の“オルタナティヴ”ロック・シーンを揺るがしたバンドの音楽性は既に確立されている。1995年に一度CD化が実現したものの、それ以降廃盤状態が続いており、約20年ぶりにリマスターとボーナス・トラックを加えて蘇ったことは世界中のファンにとって吉報だ。

今回のリイシューは、バンドのベーシストであるビリー・グールドが主宰するレーベル『クールアロウ・レコーズ』からのものだ。1985年、彼らが世界制覇に向かって旅立った時期の思い出を、ビリーに振り返ってもらおう。

<『ウィー・ケア・ア・ロット』はパンチがあって、ナチュラルでクールなアルバム>

●1985年当時、どんなアーティストから影響を受けていましたか?

みんな18歳ぐらいで、主に1970年代後期から1980年代初めのポスト・パンクから影響を受けていた。キリング・ジョークやギャング・オブ・フォー、ポップ・グループ...イギリスの音楽シーンで起こっていることは、カリフォルニアに住む俺たちからすると別世界の出来事だったんだ。それと大きなインパクトがあったのがアフリカ・バンバータの「プラネット・ロック」だった。クラフトワークを再構築したように思えたね。そんな中から、自分たちの表現を作り上げていったんだ。

●『ウィー・ケア・ア・ロット』の曲作りはどのようなものでしたか?

1982年ぐらいに曲を書き始めたんだ。最初はループを書いていた。反復するループを幾つも書いて、それを繋げてヴァースやコーラスにしていったんだ。そんな作業を2、3年続けて、数曲が仕上がった。『ウィー・ケア・ア・ロット』は俺たちが“ソングライティング”というものに目覚めた時期の産物なんだ。

●アルバムのレコーディング作業について教えて下さい。

Faith No More『We Care A Lot』(発売中)
Faith No More『We Care A Lot』(発売中)

最初にマット・ウォレスの実家のガレージで8トラックのデモを録ったんだ。それをあちこちに配ったけど、何の反応もなかった。楽曲の本来のサウンドを捉えていないのかも知れないと思って、ちゃんとしたスタジオで録り直すことにしたんだ。そうしてレコーディングしたのがアルバムのテイクだったんだよ。

●アルバムのタイトル曲「ウィー・ケア・ア・ロット」は“気にかけているもの”を列記する、ジョン・レノンの「ゴッド」を思わせるスタイルの曲ですが、それは意識したのでしょうか?

いや、全然(笑)。この曲を書いたのは1984年だったかな、「ウィ・アー・ザ・ワールド」みたいに、“博愛主義者”のミュージシャンたちがチャリティ・ブームを起こして、お互いを讃えていたんだ。そんな風潮にちょっと茶々を入れてみたかったんだよ。

●「マーク・ボーウェン」はジム・マーティンより以前に在籍していたギタリストですが、何故彼の名前を曲のタイトルにしたのですか?

「マーク・ボーウェン」の歌詞を書いたのはチャックだったんだ。おそらく名前の発音が音楽的に聞こえたんだと思うけど、真の理由を知りたかったら、チャックに訊くのが一番だろうな。ジムに落ち着くまで、4人から5人のギタリストを経てきたけど、マークは1年近くのあいだバンドにいたんだ。ずいぶん長い方だよね。マークは今ではシアトルに住んでいて、前回のシアトル公演でもバックステージに来てくれたよ。

●CDブックレットに歴代メンバーへの謝辞があり、その中にコートニー・ラヴも挙げられていますが、彼女はどの程度“正式”なメンバーだったのですか?

チャックに落ち着くまで、やはり数人のシンガーを経てきたけど、コートニーはその一人だったんだ。彼女との音楽的な組み合わせは決してベストなものではなくて、4〜5回ショーをやっただけだった。もしかしたらライヴを録ったカセットがあるかも知れないけど、スタジオでレコーディングはしなかったよ。

●コートニーは彼女を知る人々から毀誉褒貶の激しい人ですが、あなたは普通に話す間柄ですか?

当時も仲は悪くなかったし、もう25年か30年ぐらいの間、せいぜい一度顔を合わせた程度だから、特に大きな問題はないよ。ロディ(ボッタム)はたまに連絡を取り合っているみたいだけど、俺は特に電話もメールもしていない。とはいっても別に避けているわけではないし、どこかで出くわしたら「ハロー、元気?」って話すよ。

●『ウィー・ケア・ア・ロット』発表から30年を経て、どのように評価しますか?

自分の作った作品だから、客観的に評価するのは難しいね。ただ、クソみたいなリハーサル・スペースで生まれた曲にしては、すごく良いものばかりだと思う。2016年になっても新鮮に聞こえるんじゃないかな。一時はもう聴いちゃられなかったんだ。20年もずっと再発されなかったのは、それが理由のひとつだった。でも今回の再発に際してスタジオのモニターで全編通して聴いてみたら、すごく良いと思ったんだ。レコーディング全体に魂と炎が込められている。パンチがあって、ナチュラルでクールなアルバムだよ。

<「アズ・ザ・ワーム・ターンズ」は30年経ってもライヴでプレイして飽きない>

●今回の再発ではボーナス・トラックとして1986年、サンフランシスコの『I-Beam』で録音された「ザ・ジャングル」「ニュー・ビギニングス」のライヴ・ヴァージョンが収録されていますが、どんな思い出がありますか?

アメリカ全土を3〜4ヶ月かけてツアーした直後のショーだったんだ。ツアーはクレイジーな経験だったけど、俺たちをより強力なバンドにしてくれた。フェイス・ノー・モアが本物のバンドになったのは、あの時期だった気がするね。あのショーはレッド・クロスと一緒にやったんだ。実は全編をビデオ撮影していて、いずれ何らかの形で発表するかも知れない。

●当時どんなバンドと対バンをしていたのですか? CDブックレットのロディ・ボッタムによるライナーノーツではキャロライナー・レインボーが挙げられていましたが...。

ああ、キャロライナー・レインボーを知っているかい?何というか...他にいない、“特殊な”バンドだよな(笑)。初期の頃は、あらゆるバンドと共演していたよ。ほとんどは自主制作やインディーズでシングルを1枚出して解散するような連中だった。さまざまな音楽性のバンドと一緒にやることで、俺たちの創造性が育まれていったんだ。

●サンフランシスコといえばメタリカを筆頭にヘヴィ・メタルも盛んでしたが、メタル・バンドと一緒にショーをやったことは?

いや、やったことがないと思う。もしかしたら数回やったかも知れないけど、誰も来ない汚いクラブでの前座だよ。レコード・デビューしてからフェイス・ノー・モアはメタルの枠内に入れられることもあったけど、初期は誰も俺たちをメタルだなんて思っていなかったんだ。

●フェイス・ノー・モアにメタル的な要素を持ち込んだのは、ジム・マーティンだったのでしょうか?

うん、その通りだ。

●この時期の未発表音源や映像はたくさんあるのですか?

いや、そんなにないよ。今回見つけたデモだけでも「こんなものがあったのか!」と驚いたほどだ。自宅の地下室の段ボール箱の中にレコードやカセット、写真などを入れていたんだ。箱の上にはホコリが積もっていたよ。

●さらにボーナス・トラックとして「ウィー・ケア・ア・ロット」、「ピルズ・フォー・ブレックファスト」、「アズ・ザ・ワーム・ターンズ」の2016年リミックスが収録されていますが、どんな変化を志しましたか?

オリジナルを改変するのではなく、その3曲の24トラックをマット・ウォレスに送って、2016年にミックスしたらどうなるか、やってもらったんだ。面白い実験だと思ったんだよ。

●「ウィー・ケア・ア・ロット」と「アズ・ザ・ワーム・ターンズ」はマイク・パットン加入後に再レコーディングしたり、今回リミックスしたり、特別な思い入れがあるのでしょうか?

そうだね。特に「アズ・ザ・ワーム・ターンズ」はすごく気に入っている。30年経ってもライヴでプレイして飽きない曲だよ。ただ『ウィー・ケア・ア・ロット』の曲の多くは今でも好きだし、「マーク・ボーウェン」もよくプレイしている。

●「ピルズ・フォー・ブレックファスト」は元々インストゥルメンタルとして書かれたのですか?それとも歌詞を思いつかなかったのですか?

どうだったかな...どちらの可能性もあるね。初期のバンドは当時イギリスで起こっていた音楽から影響を受けていたけど、それと並行して、マイク(ボーディン)はガーナ出身のアフリカン・ドラムスの達人からドラムスの指導を受けていたんだ。だから俺たちのループにはアフリカ音楽からの影響があって、「ピルズ・フォー・ブレックファスト」もそのひとつだったと思う。そんな影響に少しばかりヘヴィな味付けをしたんだ。

●「ピルズ・フォー・ブレックファスト」というタイトルにはどんな意味があるのですか?

あのタイトルはジムが考えたんだ。そういえば一度も彼に訊いてみたことがなかったな(笑)。

●「ジム」というタイトルは彼が書いた曲だから?

そうだよ。スタジオで作業しているとき、ジムが「こういうのをやりたいんだけど」と言い出して、そのテイクがそのままアルバムに収録されたんだ。

●「ジム」は初期ブラック・サバスのアルバムでトニー・アイオミが爪弾く小曲を思わせますね?

うん、ブラック・サバスやレッド・ツェッペリンぽいかもね。意図して彼らに似せようとしたわけではないけど、いろんなタイプの曲を入れることでメリハリを付けようと考えたんだ。

<フェイス・ノー・モアの創造力の炎は絶えていない>

●フェイス・ノー・モアは1990年代に“ラップ・メタル”と呼ばれることがありましたが、同様にそう呼ばれたレッド・ホット・チリ・ペッパーズやフィッシュボーンらと同じシーンあるいはコミュニティに属する意識はありましたか?

フェイス・ノー・モアは独自のドラミングを習得していたし、常にリズムを意識していた。だからヴォーカルもリズミカルだったんだ。当時はまだラップは新しいもので、“ラップ・メタル”なんてものはなかった。だからシーンなんてものはなかったし、俺たちとレッド・ホット・チリ・ペッパーズやフィッシュボーンとの共通点は、カリフォルニア出身ということだけだった。みんな自分たちの好きな音楽をやっていただけだよ。1990年代に入ってからカテゴリー分けされて、いわゆる“ファンク・メタル”のバンドが俺たちにデモを送ってくるようになったけど、仲間意識はまったくなかった。俺たちは好きな調味料を調合してお気に入りのテイストを作っていただけなんだ。

●“フェイス・ノー・モア”という宗教を否定するバンド名、そして『ウィー・ケア・ア・ロット』の神秘的な八芒星のアートワークのせいで、キリスト教団体などからバッシングを受けたことはありませんか?

いや、30年間、一度もトラブルに遭ったことはないよ。もっと前面に出した方が話題になってアルバムが売れたかも知れないけど、当時は思いつかなかったんだ。まあ、音楽そのもので勝負したのが正しかったと思う。『ウィー・ケア・ア・ロット』は完璧ではないけれど、当時の俺たちを反映したアルバムだ。何も変える必要はないよ。

●2015年にはワールド・ツアーの一環として日本公演を行い、ニュー・アルバム『ソル・インヴィクタス』も発表しましたが、今後フェイス・ノー・モアとしての活動の予定はありますか?

今の時点で発表できることはないけれど、遠くない将来、フェイス・ノー・モアとして何かをやると思う。『ソル・インヴィクタス』は作っていて楽しかったし、バンドの創造力の炎が絶えていないことを証明した。また仲間たちとスタジオに入ったり、ツアーをするのが楽しみだよ。

●フェイス・ノー・モア

『ウィー・ケア・ア・ロット』 デラックス・バンド・エディション

ホステス・エンタテインメント HSE-3556 / Koolarrow Records KACA035CDJ

現在発売中

音楽ライター

1970年、東京生まれの音楽ライター。ベルギー、オランダ、チェコスロバキア(当時)、イギリスで育つ。早稲田大学政治経済学部政治学科卒業後、一般企業勤務を経て、1994年に音楽ライターに。ミュージシャンを中心に1,200以上のインタビューを行い、雑誌や書籍、CDライナーノーツなどで執筆活動を行う。『ロックで学ぶ世界史』『ダークサイド・オブ・ロック』『激重轟音メタル・ディスク・ガイド』『ロック・ムービー・クロニクル』などを総監修・執筆。実用英検1級、TOEIC945点取得。

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