放置→怠慢→放棄 荒んだ部屋で進行する「自己否定」の病

(写真:shutterstock)

 「片づけが面倒」というセルフネグレクト。

 ご承知のように、ネグレクトとは「虐待」行為の一つ。本来ならば、十分なケアをされてしかるべき生存弱者たち、児童や障害者、老年者が、それを受けることなく放置されること。

 育児、看護、介護に、怠慢と放棄が蔓延している状態は痛ましいと言うしかない。これは、責任ある立場の者と生存弱者との間に起きる問題であるけれど、おかしなことに、このネグレクトを自分自身に対して行っている場合があるのです。それも、決して、生存弱者ではないにもかかわらず。

 そう、私が今まで目の当たりにしてきた数多くの光景は、まさにこれ。毎朝、仕事に出かける姿は、バッチリメイクに颯爽としたスーツ姿でありながら、帰宅するその家は、大量のモノがひしめく荒んだ住まいである女性たちとどれだけ会ってきたことだろう。おそらく、彼女たちは、対外的な自分を保つのに精一杯で、家に戻れば、つまり誰にも見られることのない空間を整えることなど、面倒以外のなにものでもなく、自分のために自分の空間をケアする気力も体力も湧いてはこないということ。

 あるいは、モノにのっとられたかのような住まいで、毎日かろうじて台所に立つ主婦もいる。大量の器が棚に詰まり、大量の調理器具があふれ出ているキッチンで、煩雑な調理の手間をわざわざ自分に強いているかのような主婦たちもいる。

 その中でもいちばん驚いたのは、本来、使い捨てであるはずの食品保存用の密封袋が洗って干してあったこと。確かに、繰り返し使えないこともないその密封袋を洗う気持ちもわからなくないが、それがどれほどの節約に繋がるのか、その手間とブラブラとぶら下がっている見苦しさで、まるで自分を虐めているようにしか、私には見えなかった。

 もちろん、それはキッチンに限ったことではなく、床にあふれたモノたちは掃除機をかけることも難儀にし、やがて、モノと共に潜んだ汚れやホコリの中に自らの身を沈めることになる。そして、主婦たちは私にこう訴える。片づけたくても「どこから手をつけていいかわからない」と。そうして、家の有様は、そのまま放置されていく。

 だから私は、こんな質問を必ず投げかける。「もしも、旅行先で泊まる予定のホテルや旅館が、今の自分の家の有様と全く同じだったとしたら、喜んで泊まるかどうか」と。

 当然ながら、その答えは「いいえ」。しかも、この「いいえ」は、「喜んで」を否定した訳ではなく、絶対に泊まりたくない、泊まるのは「厭だ!」という意味。そう、「がっかり」とか「残念」というレベルではないのです。

 だとしたら、毎日毎日「絶対に泊まりたくない有様の部屋」に帰宅して過ごしているという事実に気づかなくてはならない。けれど、残念なことに、この事実、この実態は、いとも簡単に見過ごされ、ただ単に「いつもモノが散らかっている」「家はまったく片づかない」といった程度の悩みとしか理解されていない。

 違うのだ。そんな「厭な空間」に自分を毎日押し込めている行為は、「虐待」に他ならない。しかも、自分で自分にする虐待。

 そして、この静かに進行する無意識の虐待の怖ろしさは、自分をないがしろにし、自分の自信を喪失させ、自分をとるに足らない存在と矮小化させていくことにある。つまり、これら否定のプロセスで自分を無気力人間に仕立てあげていくのだ。

 コントロールできない量のモノたちを自分の家にはびこらせてしまった結果、

 面倒

 面倒くさい

 手がつけられない

 どうしようもない

 どうでもいい

 と、放置から怠慢、怠慢から放棄、と進行するセルフネグレクト。外に開示されることのない家の中には、誰にも気づかれることのない自己否定の病、その症状が、余計なモノたちの量に比例するかのごとく重篤化しているのです。