ゴミをせっせと「収納」する私たち

(写真:shutterstock)

 都心に仕事の根城を構えるようになって5年になる。その間、ホテルからホテルへと、ホテルから賃貸マンションへと、転居を繰り返し、今は3件目の賃貸マンション暮らし。

 結婚以来40年近く、ずっと北陸の小都市、伝統的な古い町に住み続けている身が、こんなにも転居好きだったとは私自身驚きでもあるけれど、もともと同じところに居続ける性分ではなかったのだろう。

 まあ、考えてみれば、住まいといえども、俯瞰的に見れば一つのモノであることには変わりなく、ライフステージの変化に合わせて、意識の変化に合わせて、持ち替えるというのは、実は自然なことなのかもしれない。そう思えば、今まではずいぶんと自分に制限を加えていたことになる。

 ただ、身の周りのモノたちと違って、住居を持ち替えるにはかなりの手間とコストがかかる。煩雑な手続きもあるし、引っ越しという騒動も伴う。小さなモノでも留め置き、大きな家具も同じ場所でそのまま動かすことなど考えもしないのが大抵であるならば、この転居を好むこと自体、訝かしがられるのも当然かもしれない。

 この転居にあたって、私がいったい何を重要視するかといえば、それはもう「眺望」に尽きる。広さも大事、間取りも重要、確かにそれもあるけれど、限られた選択肢の中から限られた予算での選択となるのだから、せめて眺めの良さが、それら制限を補い、なおかつ視界の自由をもたらしてくれることを期待してのこと。

 ところで、このマンション暮らしで、私はその視界の自由に加え、もう一つ、制限を外して「自由」を手に入れることができている。そうか、この二つの自由との引き換えに家賃を支払っているのかと思えば、経済的にも心理的にも重い負担となる家賃への意識が、ずいぶんと軽やかなそれに変わっていくもの。

 それは、ゴミ出しの自由。

 そうだ、賃貸マンション暮らしを始めて何がいちばん嬉しかったかと言えば、この、24時間いつでもゴミ出しOKというサービスが提供されていたこと。

 日々の暮らしで必ず出る、生活ゴミ。どんなにゴミの減量に取り組んだとしても、それらは出る。そして、ゴミとは、ゴミとなった時点で、ただちに自分の元から出したいというのが、誰にとっても本音だろう。

 指定された曜日に指定されたモノしか出せない制限と不自由。長い地元での生活で、自治体のルールに従ったゴミ出しをし、そして、そのルールを守り守らせるための町内会活動も機能していた、つまり、ある種の監視下に置かれていたかのような生活を思えば、この24時間ゴミ出しOKというサービスは、長い間の拘束を解かれたような気持ちになったものだ。

 もちろん、分別のルールはある。場所の指定はある。けれど、各居住階に設置されたゴミ集積場の維持管理までもきちんとなされていることを思えば、出すことの「時間の自由」を思えば、その分別ルールも場所指定も「それくらい、喜んで守りますとも!」という気持ちが自然に湧いてくる。

 思えば、私たち人間は、自分の身体に毎度発生するゴミ、要するに排泄物を出すにあたっても、場所と時間の制限を受けている。確かに、「お手洗い」という決められた場所が用意されていることは、そこが美しく維持管理されていることは、とても有り難いことではあるけれど。

 私たちは子供のときから、授業の休み時間、仕事の休憩時間といった排泄時間の制限を守りながら、この社会で生きてきた。そう、身体の生理的欲求に少なからず制限を与えながら生きている、不自由な生き物なのだ。

 さて、家の中のゴミに戻ろう。ゴミ出しの制限の中で生活している私たちは、ゴミ出しの自由を求めて、どんな行動を無意識のうちにとるのだろう。

 それは、家の中に自分たち専用のゴミ集積所をつくること。そこは手近で、分別の必要さえもなく、もちろん24時間フリー。こんな有り難い集積所は他にはない。

 けれど、その有り難い「自由ゴミ出し空間」には、決して、ゴミ集積所という名前は付いてはいない。「クローゼット」か、「押入れ」か、「納戸」か、「ベランダ」か、それとも、子供が独立した後の「元子供部屋」か、そんな名前が付いている。

 そうですね、収納という名の下に、片づけという名の下に、本来、家の外に出すべきモノたちが突っ込まれ、溜め込まれた空間を、私はどれだけ見てきたことか知れない。幸いにして、それらは生ゴミではないけれど、自分の今の生活に関わりがなくなった「生活ゴミ」であることには変わりなく。

 そして残念なことに、その「専用自由ゴミ出し集積空間」が、キレイに維持管理されていることは、まったくと言っていいほどないのです。