「片づけられない」女、「捨てられない」人の共通点

多くの「片づけられない」と悩む人たち。多くの「捨てられない」と悩む人たち。そのほとんどが女性であるけれど、これら悩みを抱え込んだ人たちには、ひとつの共通点がある。

さて、その共通点を探る前に、悩める人たちのほとんどが女性であるとする理由から明らかにしていく必要があるのかもしれない。要するに、私の受講生・クライアントの9割を女性が占めているからで、同時に、それほどまでに悩んでいる女性と同じ住空間に暮らす男性、夫やパートナーは、自分を責めるほどには悩んでいないという事実がある。同じ家・同じ部屋で過ごしていながら、同じように深くは悩まないのは、なぜなのか。

だからと言って、もちろん男性たちが片づけている、捨てているわけではない。実際には女性と同じように、あるいはそれ以上に、モノが溜め込まれた混乱混沌の住空間・仕事空間にいる。ただし、男性たちはそこで悩むのではなく、その目の前の有様の無視を決め込んでいるか、あるいは妻の仕業として責任を回避するか、はたまた、始末は女がするものだとみなしているかのどれか。

つまり、男性女性に関係なく、片づけを苦手とし、捨てることに強い抵抗を覚えるのが私たちの圧倒的多数であり、片づけ上手、捨て上手という始末を実行できている人たちはごくごく少数だということ。

だから、もしもこの少数派に入れたならば、人生は自分のもの、人生の勝利者と言ってもいいくらいに私は思っている。なぜなら、始末上手はモノも空間も意識も自分のコントロール下に置いていることに他ならず、そのコントロール力は、人生のあらゆる場面、とりわけ、人間関係の構築において効力を発揮するに違いないのだから。

さて、本題に戻ろうか。片づけの悩みを抱え込む女性たちの共通点は、まさにこれ。

自己肯定感の低さ。

どうにも、自分のことを否定している。

それは、彼女たちの住空間を俯瞰してみれば明らかなこと。まっとうな自尊感情を持ち合わせていれば、慢性的に荒れた部屋に自分の身をずっと留め置く選択などしはしない。自分に相応しい空間は爽やかなスッキリ空間であるとするだろう。

まるで、散らかり荒れた部屋こそ自分にはお似合いとばかりの有様。もちろん、当事者の女性はそんなことは思いもよらない。けれど、そこから脱出を試みることなく、ただ悩んで、ため息をついているだけならば、それはあきらめていることになる。そして、このあきらめが自己肯定感を更にしぼませていくのです。

だから私は、こんな女性たちに、次のような質問を投げかける。

「旅先で宿泊するホテル、旅館の部屋の状態が、今のあなたの部屋の有様と同じだとしたら、あなたはそこに宿泊するだろうか」と。

答えは、もちろん「否」である。だとしたら、自分が絶対に宿泊を拒否する部屋を、日常生活では考えもせず、自分には許していることになる。この実態はすなわち、毎日毎日、自分を虐(いじ)めているかのような散らかり部屋・溜め込みハウスに暮らしながら、たまの休みに「自分へのご褒美」と言って高級温泉旅館に出かける現実逃避。まるで寝とぼけた夢を見ているかのように自分を誤魔化す暮らし。

自分を健全なかたちで肯定しているならば、日常の生活空間も「安心と元気」「 癒しともてなし」に満ちたそれであるのは当然のこと。

そして、この散らかりが常態化した生活空間にいつの間にか身を落としてしまったのも、モノを捨てられないことが大きく関係している。既に必要でもなくなったモノたちを余計に溜め込んでいるのは、他でもない、自分に自信がないからこそ。捨てられないのではなく、捨てようとしない思考にはまってしまうのは、新たに相応しいモノを手にする力が自分にあることを肯定できないから。

だからまた、そんな女性たちに私はこんな問いかけをする。

「もしも、捨てられないと悩む服と同じ服を、男性からお似合いだと言われてプレゼントされたら、あなたはそれを喜んで受け取るのだろうか」と。

その答えも、やはり「否」に違いなく。そう、がっかりでしかないプレゼントのはず。けれど、その残念と成り果てた品々を残念と自覚することもなく、捨てる後ろめたさを引き受け切れずに留め置くばかり。

本来なら、きっぱりと拒否するはずの「荒み淀んだ空間」に何年も居続けること。

本当なら、きっぱりと拒絶するはずの「がっかりの品々」を何年も持ち続けること。

こんな状態にずっと自分を封じ込める頑強な自己肯定感の欠如こそ、断捨離したいもの。

いえ、余計なモノを断捨離して爽快感溢れる空間をクリエイトしてこそ、自己肯定感がよみがえるのですけれど。

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*「断捨離(R)」は、やましたひでこ個人の登録商標です。