突っ込み、溜め込んだ、そのあとは? ~断捨離的「四住期(しじゅうき)」を考える

散らかし期

突っ込み期

溜め込み期

古代インドでは人生を四つの時期に区切ったという。

学生期<がくしょうき>

家住期<かじゅうき>

林住期<りんじゅうき>

遊行期<ゆぎょうき>

生まれてから最初の20年ぐらいが学生期。将来、社会で貢献できる生き方ができるよう親の庇護のもと学ぶ時期。次の家住期は、社会的役割を果たす時期。仕事をし、家庭を持ち、子を育てる、いわば世俗生活に当たる。林住期には、世俗生活を離れ、精神的リーダーに学びをもとめる。要するに、社会的な義務をきちんと果たしたあとで、いよいよ自分の精神性を高めることに専念する。そして、遊行期には、一箇所に留まることなく各地を遊行して完全に奉仕生活に入る。

<参考『伝説のヨガマスターが教えてくれた究極の生きる智恵』龍村修/やましたひでこ共著>

さてさて、この「四住期」に倣って、私も断捨離の視点で人生を区切ってみたら、なんと冒頭の三つの人生の時期が頭に浮かんできたというわけ。

散らかし期。子供というのは散らかすものだ。散らかすことによって理解をしようとしている。積みあげられたモノの山を広げてみては、その正体、山がこんなモノたちの組み合わせでできていることを学んでいく。そのいい例が「積み木くずし」遊びなのだろう。

当然、母親には、子供がただおもちゃを散らかしているだけにしか見えない。だから、その光景はどうにもイライラの種となる。そして母親は、子供に「片づけなさい!」を連呼することになる。

突っ込み期。さて、あけくれ散らかす子供に、あけくれ「片づけなさい!」と声を荒げているその母は、至る所にモノを突っ込んでいる。「片づけ」と称して、引き出しにも、キャビネットにも、クローゼットにも、庭の物置にも、隙間という隙間にモノを突っ込んでいる。

その「突っ込み」は、初めは「収納」という整頓だったかもしれない。けれど、それはかりそめの虚しい行為に過ぎず、たちまちにして乱雑に突っ込むという行為に変貌する。なぜなら、手に余る量のモノたちを、ひとつひとつ丁寧に収納していく時間の余裕も気持ちの余裕も、今の忙しい母親にはない。

ところで、先日、私はこんな片づけ現場に立ち会うことになった。小学校低学年の女の子。彼女は、自分が「もう必要とは感じないモノ」たち、学習道具、遊び道具を、ポイポイと捨て出した。いちいち「要・不要」を思考しているわけではない。感覚での選択だから、その捨てる量もスピードも半端ではなかった。

その様子が、母親にとってはいたたまれなかったのだろう。それらは、母親である自分が娘に「よかれ」と思って買い与えたモノばかりでもあったから。母親は娘をこう叱った。「そんな乱暴なモノの捨て方はしないで!」

けれど、私の目には母親も同じに映る。なぜなら、母親もキッチンの引き出し全てに、大量の食品や食器を乱暴に突っ込んでいたから。それは引き出しに隠れていただけのことであって、乱暴に扱われていることとなんら変わりない。

溜め込み期。突っ込まれたモノたちはやがて、収納の奥へ奥へと追いやられるようにして堆積していく。それはもはや「要・不要」を問うどころか、存在さえも忘れられた状態。家中にモノが重たく溜まり、空間が閉塞感と圧迫感でいっぱい。それは、爽やかな「林住」とは程遠い淀んだ環境。そして、その停滞した空気に支配されながら老いていくのをじっと待つばかり。

こんな重たいモノたちを抱え溜め込んでいたとしたら、4番目の「遊行期」など考えも及ばないはず。「一箇所に留まらず各地を遊行する奉仕生活」は、現在の私たちには無縁の世界。それどころか、動かなくなった身体とともに自分の殻に閉じこもり、過去の出来事を繰り返し思い出しては話すだけの老境。

はてさて、こんな人生の最後の時期を私はなんと名付けようか。もしも、それを、ひしめくモノに乗っとられた挙句の住空間での「独居孤独期」としたら、それは残念を通り越して悲痛というしかないですね。

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*「断捨離(R)」は、やましたひでこ個人の登録商標です。