季節はずれの扇風機が鎮座する部屋にはびこる「ないない」問題

「空間」

「今」

「自分」

「時間がない」と私たちは、つい口にする。

「お金がない」と私たちは、つい口にする。

この二つの言葉を発する時の自分の気持ちを紐解いてみると、こう表現したほうがより正確と言えるだろう。

「自分の裁量で自由に使える時間がない」

「自分の裁量で自由に使えるお金がない」

つまり、自分のために使う時間とお金を自分で決めることはできないという不全感、あるいは隷属感に苛まれている状態を表した言葉に他ならないということ。

たとえば、専業主婦の妻であれば、家族、つまり夫や子供たちを優先にして自分の時間とお金を配分する。夫の帰宅時間までには家に戻って夕食の準備をしなくてはと考え友人との会話を切り上げ、子供の教育費を捻出するために新しい春物ブラウス一枚を買うのを控えるといったふうに。

たとえば、働き手である夫であれば、従業規則にのっとり朝から満員電車に揺られ9時の始業時間に間に合わせ、手にした給料は妻に渡し自分は幾ばくかの小遣いに甘んじるといったふうに。

そして、そんな妻は、自分で働いて「自分のお金」を得ることにあこがれ、パートに出ては、結局、自分の時間をますます失っていく。そして、そんな夫は、小遣いをはたいて居酒屋に立ち寄り生ビールを飲んで帰宅、結局、大切な夜の「自分の時間」をほろ酔い機嫌で毎夜やり過ごすことになる。

私たちは誰であれ、自分の思うままに、それこそ誰に遠慮することなく、自分のために、自分のためだけに、時間とお金を使うことを心のどこで願っている。けれど同時に、そんな勝手はそう簡単に許されるものではないとも思っている。なぜなら自分には、妻として母親として、夫として父親としての責任があるとも思っているから。

そして、そんな心の奥に封じ込めた気持ちが、時々、こんな言葉になって出てくる。

「家族にずっとかかりっきりで時間がない」

「これからの教育費を思うと貯金が足りない」

と、妻は愚痴を漏らし、

「仕事が忙しくて時間がちっともない」

「給料が頭打ちで老後の蓄えがまったくできない」

と、夫は不平を並べる。

これらは、とある50代前半の妻と夫の例なのだけれど、この夫婦の「ないない尽くし」の繰り言を聞きながら、実は私、まったく違う「三つのない」を頭の中に巡らせていたのです。

ひとつは、「空間」がない。

通されたリビングダイニングは、一応きれいに片づいてはいたものの、ぎっしりと食器が詰まった大きな食器棚、そして、部屋のサイズに合わない、これも特大サイズの立派なテーブルとソファのセットは違和感満載。テーブルの上3分の1はポットや茶器、様々な調味料が置かれたまま。若干の汚れと擦り切れがある黒のレザーソファには衣類と雑誌が積み上がった状態で載っていて、夫婦は、ソファの座面下を背もたれとしてソファテーブルに挟まるようにしてカーペットに座る。

二つめは、「今」がない。

大きな食器棚に詰まった食器は、今現在ほとんど使われていないモノばかり。なぜなら、大きなテーブルが邪魔となって食器棚の扉の開閉は簡単にはいかないから。今使っている食器はテーブルの上に載っているか、シンクの中と水切りカゴに山盛りになっている分のみ。

電気ストーブが活躍しているリビングの隅には扇風機がしまわれることなく鎮座し、いったいいつからそこにあるのだろう、年代物の「ぶら下がり健康器」が洋服掛けとなり、これまた季節はずれの服たちが何着も掛かっている。

三つめは、「自分」がない。

サイドボードには、決して当人たちが気に入っているとは感じられない、お土産や贈答品として渡されたとおぼしき民芸品や記念品がいっぱい並べられている。こけし、シャケ熊、置き時計、お皿etc. それは、ボードの棚をはみ出して上にまで載っている。

私は思う。もしも「自分を軸」にして、「今」の自分たちにふさわしいモノたちに絞り込んだとしたら。もしも「空間を軸」にして、家具を調和あるものにするか、取り除いたとしたら、このリビングダイニングにはもっとゆとりが生まれるはずだと。

そして、そんな空間のゆとりを取り戻したのならば、「時間がない」「お金がない」という愚痴も不平も、言葉にする頻度はずっとずっと減っていき、その問題解決に向けた思考と行動も蘇ってくるに違いないと。