最小でも最大でもなく「最適」な量と関係で ~ダンシャリアンがミニマリストと違う理由

最小

最大

最適

先日、私のもとに、あるミニマリストとの対談企画が持ち込まれた。どうも、断捨離はミニマリズムと混同されているようだ。けれど、ミニマリズムを最小限主義とするならば、断捨離はそれとは明らかに違う。なぜなら、断捨離は「もうモノは必要ない」と考えてはいないし、「家に何もない」状態をつくろうとはしていないのだから。

モノを最小限に絞り込むミニマリスト。そこに垣間見えるは、モノをひたすら「排除」していこうとする姿。けれど、ダンシャリアン<断捨離に励む人>は、モノを捨ててはいるけれど、それは過剰となって対応対処できなくなったモノに始末をつけているだけ。決して、ミニマムなゾーンまで手は染めてはいないですね。

つまり、断捨離とは「過剰」に焦点をあて、その過剰を元の最適レベルにまで戻そうとしているのであって、モノそのものを悪者に仕立てているわけではないですね。それどころか、モノとの関係を問い直し、モノとの良好な関係を築こうとしている。言い換えるならば、モノとは、どんなに質の高いものでも、それが有り余るものほどあったら厄介物となり、私たちを損なう存在に成り果てる。要は、断捨離はモノの量、過剰と不足のバランスをつねに意識して図ろうしているのです。

ところで、私はミニマリストと聞いて、あるバックパッカーのご夫婦の話を思い出した。このご夫婦、背中にリュックひとつを背負って、2年間、世界中を旅していたという。その間、彼らの所有物といえば、ほんの僅か。これぞ究極のミニマリストさん。ところが、旅を終え、住まいを構えたら、たちまちにして家中モノで溢れ返ってしまったのだとか。

そう、彼らは2年の間、モノはリュックひとつしか持てないという制限の中にいた。その制限が外れたとたん、手当たり次第にモノを取り込み始めてしまった。かつてはリュックたった一つ分の荷物で充分やっていけていたはずの自分たちが、実はこんなにもモノを持ちたがっていたとは、と驚きながら。

私たちがモノを手にしたい、持っていたいと思うのは自然なこと。そうやって私たちは暮らし、生きている。だからそれに過度の制限が課されたら、やはり苦しい。そしてその制限が外れると、かえってその反動が大きく出てしまうもの。

一方、ミニマリストとは真逆に、やたらとモノを溜めこむ人たちがいる。そんな人たちを私は「タメコミアン」と呼んでいるのだけれど。必要のないモノでも手にし、必要のなくなったモノでも手元に留め置き、必要のないモノたちがひしめきあう中で暮らす人たち。

いやはや、世の中には、いろいろな人たちがいるものです。もちろん、私自身も別の意味で「いろいろな人」の範疇に属することには変わりないけれど。

だからこそ、ミニマリストとタメコミアン、私はこの全く対照的な存在に思いを巡らす。

モノを、主義として、退け排除していく姿。

モノを、無自覚に、溜め込み堆積させていく姿。

最小限までモノを減らした生活と、最大限までモノを増やしつづける生活。

両極端とも言える人生の有り様。

まあ、どんな人生を選択しようとそれぞれの自由だけれど、私は、この二つの有り様に同じものを見てしまう。

それは、モノと遊び愉しむことのない姿。

それは、ゆとりの欠如。

そう、排除と放置では、モノとの関係は良好とは言えない。

そう、心の閉塞と空間の閉塞、そこに潤いがあるとは言えない。

最小限を主義として追い求めること。

最大限を無自覚に膨張させてしまうこと。

断捨離とは、過剰を手放し代謝させていく自然な営みであって、主義主張ではなく。

断捨離とは、最適を自分自身に提供していく心地のよい意図的な作業。

断捨離とは、最小限でもなく、最大限でもなく、人生のその時、その場に応じて、最適を自分にもたらしていくこと。

そして、そうするためには、そうなるためには、暮らしの様々な場面で、時に過剰に揺れることを許しながら、時に不足にあえぐことも受け入れながら、過剰と不足、そのどちらも経験していくことが必要なのですね。

どうでしょう?