“言葉の世界”の落とし穴 ~便利さと心地よさの裏側で

無限の可能性

無条件の愛

自己啓発系セミナーの男性講師がよく使うのが、この「無限の可能性」という言葉。そしてまた、スピリチュアル系セミナーの女性講師がよく口にするのがこの「無条件の愛」という言葉。

さてさて、どちらも心地よく響く言葉であることには違いない。なんとなく励まされたような気分になるし、それとなく癒されたような気持ちにはなるから。

けれど、この言葉、自己啓発系にも、スピリチュアル系にもまったく関心のない人たちには、まったく機能しない言葉、そもそも、無限とか無条件とかの形容には、大いに違和感を覚えるだけだろう。

が、どの分野にも、それぞれに流通する独特な言葉はあるもの。さしずめ、自己重要感をひたすら追い求める人たちが群れる自己啓発系であれば、「無限の可能性」はとても訴求力があるし、自己肯定感で満たされることを願う人たちが肩を寄せ合うスピリチュアル系であるならば、「無条件の愛」にはとても魅了される。

そして、「無限の可能性」は「夢は叶う」という言葉に繋がり、「無条件の愛」は「ありのまま」とセットとなり、さらに存在感を増していく。

そうだ、言葉とは便利なもの。一つの言葉に出逢い、その言葉の虜となれば、私たちはその言葉の中の世界に生きることができる。いわば、そこで思考が停止してしまい、まったく考えることなく、その言葉にしがみつく。だから、こんな反証は浮かびようもないのかも知れない。

無限って、どうよ?

無条件って、なによ?

言うまでもなく、私たちは、制限だらけの世の中を生き、条件をいっぱい付けられながら生活している。無限とか、無条件とか、それこそ考える余地もない日常にいる。

そうか、だからなのか、かえってこんな言葉に出逢うと、いとも簡単に絡(から)めとられてしまうのかもしれない。

そして、絡めとられた後は、毎日の生活が希薄となり、地道なルーチンワークは色褪せ、日常のささやかなメンテナンス作業はなおざりとなっていく

そう、自己啓発系セミナーに嵌(はま)った人ほど、デスクの上が乱雑なまま放置されていたり、スピリチュアル系セミナーにどっぷり浸っている人ほど、あり得ないくらいの溜め込み部屋で暮らしていたりする。

もちろん、私は、無限の可能性も、無条件の愛も、存在しないとは思ってはいない。たしかに、この大きな宇宙には間違いなくそれらが存在していると思っている。まあ、実のところ、そう思いたいと思っているだけなのかもしれないけれど。

けれど、存在しているのと、それにアクセスできるのかはまったく別物。次元が違うと言っていいだろう。実際、無限の可能性を熱く語る講師先生も、無条件の愛を優しく説く講師先生も、どれだけ、無限と無条件を体現しているのか、クエスチョンマークがいくつでも点灯するはず。

無限の可能性は、その講師が語り得る有限な中での無限。

無条件の愛は、その講師が説く条件の中での条件。

私には、そう思えてならない。

でもね、私は、自己啓発系も、スピリチュアル系も、どちらも好みの分野であり好きな世界。

その理由は、こう。

自己啓発系とは、スポーツジムのようもの。時にトレーニングをして、爽快な汗をかくのも気持ちがいい。

スピリチュアル系とは、温泉旅館のようなもの。たまには、ゆったりお湯につかるのも気持ちがいい。

どちらも、その時、その場で、それなりの気持ち良さがありますものね。

どうでしょう。