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【幕末こぼれ話】幕末の美剣士・伊庭八郎が左腕を失った日!

山村竜也歴史作家、時代考証家
伊庭八郎肖像画

 慶応4年(1868)5月26日は、幕臣伊庭八郎が箱根山﨑の戦いで負傷し、左腕を失った日である。

 剣豪として知られる伊庭が、なぜ敵に遅れをとったのか。医療の発達していない当時に、片腕切断という重傷を負いながら、伊庭が戦線に復帰できたのはなぜなのか――。

 あまり知られていない伊庭の激闘を、今回は紹介してみよう。

遊撃隊長として戊辰戦争に参戦

 伊庭八郎は、江戸下谷御徒町に心形刀流剣術の道場を開く伊庭軍兵衛の長男で、「伊庭の麒麟児」と呼ばれた剣客だった。加えて色白の美男であったから、江戸の女性たちが放っておかないモテ男でもあった。

 そんな伊庭も、幕末の動乱期を迎え、幕府遊撃隊の隊長として戊辰戦争に参戦することになる。上総請西藩主の林忠崇と合流した遊撃隊は、5月26日、新政府軍と箱根山﨑で激突した。

しかし、兵力に勝る新政府軍の前に遊撃隊は苦戦を強いられ、夕刻、早川にかかる三枚橋のあたりで戦っていた伊庭を敵の銃弾が襲った。撃たれた腰の傷はそれほど深くなかったが、尻餅をついた伊庭に背後から迫った小田原藩兵・高橋藤太郎が、不意に白刃を振り下ろした。

 この攻撃を伊庭はよけきれず、左手首部分を深々と斬られてしまったのだ。盟友林忠崇は、この時のことをこう証言している。

「高橋藤太郎という者が、伊庭が腰に銃丸を受けて弱ったところを、うしろから来て斬りつけ、左の手首を斬って落としたのだ。伊庭は、右手でその者を斬り殺したが――」(「林遊撃隊長縦横談」)

 伊庭の凄いところは、敵に左手を斬られながらも、右手に持った刀で逆に相手を斬り倒したというのである。伊庭の実弟の想太郎も、この時の伊庭について語っている。

「兄の八郎が敵に斬られながら、その敵を斬り倒しました時に、刀勢が余って岩を斬ったそうです」(「旧幕府」)

 高橋を斬った刀が勢いあまって地面の岩を斬ったというのだ。斬ったというよりは砕いたというところだろうか。伊庭の斬撃のすさまじさが伝わってくるような話である。

不屈の闘志で復活をとげる

 伊庭の左手首は完全に切断されたわけではなかったが、骨が断たれていてどうにもならない状態だった。伊庭の従者・荒井鎌吉によれば、左手首の状態はこのようであった。

「その晩は畑の宿へゆき、林さんのお医者が先生の腕首のブラブラしているのを切り落として血を止め、縛りつけなどしました」(「旧幕府」)

 林忠崇に従っていた医者が、とりあえず伊庭の手首を切り落とし、応急処置をしたのだった。ただ、これだけの治療しかできなかったのなら、あるいは傷口が化膿し、生命にかかわる事態になった可能性もある。伊庭にとって幸運であったのは、このあと最先端の医療技術を持つ医師により、本格的な治療を受けられたことだった。

 30数人の戦死者を出した遊撃隊は、翌日箱根を海路出航し、28日に安房館山に退却する。その際、伊庭らの負傷者は途中の品川沖で下船し、旧幕府海軍副総裁・榎本武揚の指揮下にある病院船・朝日丸で治療を受けることになったのだ。

 朝日丸の医師・篠原は、さっそく伊庭の左腕の患部を診察し、ひじの部分から改めて切断して縫合するという判断を下した。その手術のためには、当時最先端医療だった麻酔を使用することを篠原は勧めたが、伊庭は、

「他人が自分の骨を削ろうとしているのに、眠ってなどいられるか」(「伊庭氏世伝」)

 といって拒否し、ついに手術は麻酔なしで行われた。そして手術の間、顔色ひとつ変えなかったというのだから、その気丈さには驚かされる。

 このあと伊庭は、隻腕となりながらも戦線に復帰し、最後はただひとり箱館に渡り旧幕府脱走軍に合流する。そして箱館戦争を戦い抜き、26歳の若い命を散らせた。幕臣としての意地と誇りを、誰よりも大事にしたのが伊庭八郎という男だったのである。

歴史作家、時代考証家

1961年東京都生まれ。中央大学卒業。歴史作家、時代考証家。幕末維新史を中心に著書の執筆、時代劇の考証、講演活動などを積極的に展開する。著書に『幕末維新 解剖図鑑』(エクスナレッジ)、『世界一よくわかる幕末維新』『世界一よくわかる新選組』『世界一よくわかる坂本龍馬』(祥伝社)、『幕末武士の京都グルメ日記』(幻冬舎)など多数。時代考証および資料提供作品にNHK大河ドラマ「新選組!」「龍馬伝」「八重の桜」「西鄕どん」、NHK時代劇「新選組血風録」「小吉の女房」「雲霧仁左衛門6」、NHK朝の連続テレビ小説「あさが来た」、映画「燃えよ剣」「HOKUSAI」、アニメ「活撃 刀剣乱舞」など多数がある。

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