「ゴールデンカムイ」完結! 土方歳三は二度死ぬ(二)
人気漫画「ゴールデンカムイ」(作・野田サトル)の単行本最終巻がこのたび刊行され、物語が完結した。本稿は、主要登場人物の一人である新選組の土方歳三について語るコラムである(ネタバレ含む)。
明治2年(1869)の箱館戦争で戦死したはずの土方が実は生きていて、老人ながら凄腕の剣客として登場するというのがこの漫画の胸アツなところだが、そんな土方も最終巻で再び敵に倒されることになる。
かつての同志・永倉新八は、「この遺体だけは奴らにさらしたくない」といって土方の遺体を隠そうとするが、結局どこに埋葬されたのかは、「ゴールデンカムイ」のなかでは語られることはなかった。
土方歳三の埋葬場所
では、歴史上では土方歳三はどこに埋葬されたことになっているのだろうか。
実は、それがはっきりしていない。箱館戦争末期の混乱にまぎれ、埋葬地が明確になっていないのだ。
候補地はいくつかあり、みなそれなりに信憑性があるのだが、そのなかで私は土方の親類である東京日野の佐藤家に伝わる記録に注目している。
「小柴長之助 使者 一本杉へ来り土方引渡す」
これは土方に最後まで付き添っていたとされる沢忠助が、明治3年(1870)に佐藤家に来訪して語ったもので、小柴長之助というのは箱館政権で市中取締役の任にあった幕臣だ。
この記述によれば、明治2年5月11日に箱館一本木の戦いで戦死した土方の遺体は、いったんその場に放置されたようだ。その後、箱館政権から小柴が使者として現場におもむき、遺体を引き取って五稜郭の本営に帰ったと読み取ることができる。
土方の埋葬地に関するいくつかの説のなかで、遺体の運搬の詳細まで言及されたものはほかにない。私がこの記録を重視する理由はそこにある。
では、小柴が引き取った土方の遺体は、そのあとどのように扱われたのだろうか。
五稜郭内に埋葬された土方歳三
その状況を伝える記録が、佐藤家と同じ多摩の小島家に残されていた。小島鹿之助が明治6年(1873)に著した「両雄士伝」には、このように記されている。
「従士、屍を担いて五稜郭に還り、壙(あな)をうがち、これをほうむる」
土方の遺体は、五稜郭の中に穴を掘って葬られたというのだ。城郭の周囲に敵が迫っている状況にあっては、自軍の将校の遺体を城郭内に埋葬するというのは当然のことでもあった。
ならば、その場所は広い五稜郭内のどこなのか。手がかりとなる発言が、明治32年に上野東照宮で行われた旧幕府史談会の席上であった。
「八郎君の墓は函館五稜郭、土方歳三氏の墓のかたわらにあり」
八郎というのは、土方とともに箱館戦争で戦い、土方が戦死した翌日に死んだ幕臣伊庭八郎のこと。その墓が、五稜郭内の土方の墓のかたわらにあると発言者は語っているのだ。
また別の調査では、伊庭八郎の埋葬地は、五稜郭の西南隅の稜堡(星形にとがっている部分)内の松の木が植えられている場所であることが判明している。とすれば、土方が埋葬されたのも、同じ稜堡の松の木の下ということになるだろう。
同所はその後改葬された形跡があるので、現在もそこに土方の遺骨が残っているかどうかはわからない。しかし、箱館で激しく戦った新選組副長の魂は、最後の本拠地であった五稜郭の敷地内に今も眠っていると思えるのである。