幻の都・長岡京の見頃はまさに今
長岡京は昭和30年代に入って初めて規模が明らかに。
延暦3(784)年に平城京から遷都された長岡京は、近年までその場所すらはっきりしない幻の都と呼ばれていた。都であった期間はたった10年。死に追いやった実弟・早良親王の祟りを恐れた桓武天皇が、急いで平安京へと再度遷都を行ったためとされる。その後、長岡京は長らく歴史のカヤの外に置かれてしまった。このような経緯から長らく忘れられていた長岡京の足跡を訪ねてみたい。
スタートは阪急電車の西向日駅から。
駅の北側には早くも長岡京の建物の遺跡が現れ、ほどなく中心部である大極殿址(写真下1)へ到着する。これらは昭和30年代に中川修一氏らの発掘の努力によって、ようやくその実態が明らかになったものであり、長岡京は、平城京で不足した水運も計算された東西4.3キロ、南北5.3キロの完成度の高い都であったことが判明した。大極殿址の西隣には、京都に日蓮宗を定着させた日像上人が創建した南真経寺が立ち、西国街道を挟んで西側にはこの付近一帯の氏神である向日神社の桜並木が美しい参道(写真下2)が現れ、参道の入り口には日像上人の説法石も置かれている。室町時代に造営された向日神社本殿は、明治神宮のモデルとなったものであり、神社が立つ小高い丘一帯も長岡京時代は都の中に含まれていた。丘からの眺めはまさに絶景で、長岡京を一望のもとに見下ろせる。丘を下って南西に進むと、四月下旬に2000株のボタン(写真下3)が咲く乙訓寺(おとくにでら)に到着する。場所は長岡京では右京の三条通界隈にあたり、長岡京を代表する寺院であったことから早良親王が幽閉され、さらには平安時代に入って空海が唐から帰国して住持となり、比叡山の最澄が空海に面会を求めて訪れたという歴史的な出会いの場所ともなった。さらに南へ進むと寛永15(1638)年に八条宮智仁親王によって造営された「八条が池」が見えてくる。池周辺と隣接する長岡天満宮の参道(写真下4)は、同じく四月下旬に樹高2.5メートルにも達する樹齢約130年の霧島ツツジで真紅に染まる。神社内には近年造営された楓の美しい庭園があり、神社周辺に広がる緑豊かなエリアは、祭神の菅原道真公が太宰府に左遷される際に、この地で名残を惜しんだことも頷ける見事な自然の美しさを今に伝えている。
余力があれば・・・
長岡天満宮を出て阪急の長岡天神駅を過ぎ、JR長岡京駅手前の西国街道を少し南下すると、東側には「山崎の戦い」で明智光秀が最後の拠点した勝龍寺址に整備された勝龍寺城公園(写真下5)があり、ここでは戦国時代の激動の瞬間に触れることもできる。南隣りにある勝龍寺(写真下6)は洛西観音霊場巡りとぼけ封じ観音の札所の一つでもある。