「大学生なのに%が計算できない」と日本の初等中等教育の憂鬱(修正あり)

(写真:アフロ)

 東洋経済で芳沢光雄先生による論考が発表され、賛否両論の内容になっています。

大学生が「%」を分からない日本の絶望的な現実 日本の数学教育には致命的欠陥がある(学校・受験- 東洋経済オンライン 19/4/15)

最後に重要と考える2点を提言したい。

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1つは数学が苦手な生徒は、わからないところがわからないということだ。そのような生徒に向かって、「わからないところがあったら質問しに来なさい」と言うことは、「質問に来るな」と受け止められることに留意すべきだ。数学を教える側は、生徒がつまずいている箇所を、生徒の心に飛び込んで見抜く努力をしたいのである。

もう1つは、理解の遅いことは悪いことではないということだ。理解の遅い子どもたちにはそれぞれにマッチした教育をしてあげればよい。筆者が尊敬する数学者ガウスは、すでに3歳のとき石屋を経営する父親の計算を横からチェックしていた。

出典:大学生が「%」を分からない日本の絶望的な現実

 前者は認知とコーチングの問題としても、後者は既存の初等中等教育に対する、日本の明治維新・戦前から続く授業の在り方に原因があります。まさにここで数学者ガウスが例示されていたように、物事に関する習熟は個人差があり、また、同じ個人でも得意不得意がでこぼこに存在することは言うまでもありません。

 日本の教育の在り方については、ある種の富国強兵策の一環として、すべての子どもたちがなるだけ落ちこぼれないように教育し、協調して物事に取り組むための仕組みを学校の中で用意することで、概ね子どもの「平均値」にいる多数に対し効率よく、遺漏なく教育し、脱落者をなるだけ出さないという方針を取ってきました。これに対し、平均値に満たない下にいる外れ値を持つ子どもは、特殊学級・特殊学校へと普通教育から除外しその子にあった学習をさせることで社会に順応できるようにしていくという考え方を取っています。

 ただし、上の外れ値を持つ子どもは、学校の中で他の子どもたちと同様の勉強を強いられ、頭の良い子どもほど浮いてしまう弊害を持ちます。学内におけるいじめは、上への外れ値も下への外れ値もいずれの子どもたちに対して行われますが、いまの公教育に「その子どもにあった教育を施す仕組み」を採用することは絶望的にむつかしいというのが実情ではないかと思います。

 翻って、冒頭の%も分からない大学生の問題が発生します。一般論としては「%の計算もできない人間を大学生として受け入れるべきではない」という議論が出る一方、行動遺伝学的には数学的能力と国語能力はほぼ同じ遺伝的特性によって司られており、数学ができる子は国語ができ、国語が得意な子は算数もできる、ただし学問に対する好き嫌いや、ひらめきで解くことのできる算数・数学と、文脈を読み解いたり記憶が必要な漢字、古文を含む国語とでは子どもの性格、性質上の違いによって成績に差が出るというだけのことだろうと思われます。

 そして、この%の問題については、以前の教育の常識では「初等教育で割合に関する知覚を小学生全員に身に付けさせる」という話になります。日本の教育においては、すべての子どもたちが一定の水準まで学力をつける前提で教育システムが組まれている以上、それができない子どもは成績が悪い、あるいは落ちこぼれとされ、補講の対象になったりします。

 しかしながら、遺伝子解析の進歩により、実際には「勉強不足、教育の問題により%が分からない子ども」だけではなく「遺伝的に抽象的思考力が欠けている子ども」が多数いることが分かってきました。

 単純な話、教育すれば全員が「%計算ができるようになる」とは言えない。

 教育すれば「どんな子どもでも」一定の数学、国語能力が身に付くという、そんなエビデンスは特にないのです。

 逆に、遺伝と非共有環境に関する事実は、教育がその人の資質や性格に及ぼすことのできる影響は限定的で、かつ、40代にはほぼその教育の影響は失われて、その子どもが本来持っていた資質や性格がそのまま発現します。教育の役割は、いままでのように「教え込んで、組織や社会への協調を促す」よりも「勉学への動機付けをし、考えるきっかけを与える」方向へと変遷していく過程に現在あります。

 それでも、日本の教育の在り方に関する議論は牧歌的な状態のままか、教育経済学のような疑似相関を繋ぎ合わせたものがエビデンスベースドであると誤認されるような形になっています。しかるに「教育すれば%計算ができるようになるはずだ」という議論となり、冒頭の芳沢光雄先生の記事に繋がっていくのです。抽象的思考力に欠けていても、具体的な認知能力や空間認識能力が高いなどの特徴を持つ子どもは少なくありません。そのような子どもに合った「学問」は実際のところ用意されておらず、美術や図工といった、標準学力とは違う学問に寄せられてしまっているのが現実で、しかし、空間認識能力が高ければ建築や設計を含む工学系の能力を極めて高く持つはずが、そのような子どもは「数学の成績の悪い子」と画一的にスポイルされてしまいます。親の期待や本人の高い資質とは別に、学校でいじめに遭い、己の才覚を持て余し、嘆きながら専門学校に通うような人生を送ることも考えられます。

 それが日本の教育が絶望的だ、という話で終わってしまうのであれば、それは日本の教育者は憤慨するでしょう。

 「どうにかしなければならない」と思っている教師・教諭はたくさんいるからです。

 さらに、新井紀子先生が突然「教科書が読めない日本人」と言い出してしまいました。その根拠が、新井先生の提唱する「リーディング・スキル・テスト(RST)」なるさしたる価値があるとは思えないテストを人間と人工知能に施した結果に過ぎず、この程度の内容が科学の皮を被って分かりやすい煽りで世情を騒がせているようでは、別の意味で日本の公教育や研究は荒廃してしまうのではないかとすら思います。

東ロボくんで微妙なことになった新井紀子せんせが荒ぶっている(やまもといちろう 公式ブログ 19/4/1)

 一番の問題は、その子どもにあった学習をできる仕組みを構築できるようにすること、その子どもの特質を明らかにし、一般の公教育では能力開発のむつかしい外れ値の子どもや意欲を高く持つ子どもを発掘しながら個別教育の知見を高め、将来的にすべての子どもが学問として必要と思われる各分野の進捗ごとにピンポイントで学習できる仕組みを政策・社会的にきちんと構築することです。数学者ガロアにはガロアの、発達障碍児や自閉症スペクトラムにある子どもなど外れ値を持つ子どもには彼らの、その特質の把握から始める必要があります。将来的にはすべての日本人の子どもたちに、その子どもたちの特性を調べ把握し、その子どもの習熟進捗や意欲にあわせた教育ができるようにすることが理想です。

 あまり言うべきことではないのかもしれませんが、中学受験やその前段にある学力調査の類は、当たり前ですが4月に生まれた子は早生まれの子どもよりも有意に有利です。その結果、そのまま中学3年の文部科学省の調査では4月生まれが総じて学力が高くなります。「遺伝的に、4月に生まれた子のほうがが早生まれの子どもよりも才覚に優れている」という結論など出るはずもなく、下手をすると、何年生でひとくくりにしたり、学校を担任制にして管理したりすること自体が不公正で不平等だという結論になりはしませんでしょうか。

 さらには、%で物事を考えることの大事さ以前に、%で物事を考えることのできない遺伝的特性を持つ人が、実は違う能力を持っている可能性を考え、そういう人には無理に%を教えないことのほうが大事だという結論が出ることもあり得ます。また、能力を秘めた自閉症スペクトラムの子どもを探した結果、単に低スペック人間に過ぎないということが判明することもあり得ます。そのような調査がその人にとって幸せなことなのかという問題も、併せて考えなければなりません。

 蛇足ながら、人工知能時代と言われる一方、大学生の能力が下がっていると大学職員からたびたび相談をされるのですが、大学生の能力低下は実のところ「大学に入ろうと考える子供の絶対数が減った」という少子化の問題のほうが、教育制度の問題よりも大きいことは指摘されるべきだろうと思います。良くあるのが「いまの学生は昔の学生よりも向学心が足りない」「学問の基礎的な素養に欠けるようになった」ということで、単純に昔の学生の水準といまを比較されるケースが多くあります。

 しかし、実際にはデキる学生の数は単純に人口における割合でおおむね決まっていて、私のような73年生まれのベビーブーマーは209万人いて国立私立名門を受験するのに18倍とかいう熾烈な競争による狭き門だったものが、現在は年間出生数も100万人を割り、有力中学でもせいぜい4倍という倍率となって受験産業が壊滅するぐらい受験校を狙う家庭が減りました。同じ偏差値70でも、同年代209万人と94万人では母数がそもそも違います。

 必然的に現代のような少子化となれば、京都大学や東京大学などの上位校が人口の減少に合わせて合格者数を絞らない限り、できる学生は京都大学、東京大学へと順番に入っていき、中堅以下の大学には昔であれば棒にも箸にもかからないような若者が堂々と合格して大学生になっていきます。新井先生の提唱する「教科書の読めない子ども」は珍説としても、芳沢先生のご指摘はごもっともな一方で「別の特性を見極めることも教育者の仕事の一つ(そのような素養を持たない若者を大学に入れるほうが問題)」という一般的な結論にならざるを得なくなります。

 その状況を鑑みて、いま目の前にいる大学生が、80年代90年代の大学生と比べて能力的に優れているはずがなく、分数や%計算ができないとか、(ある程度は)教科書が読み解けないとかは平然といて何も不思議ではないことぐらいは知っていてほしいのです。大学教員が嘆く学力の低迷は、文教行政の混乱を除けば人口減少のほうがもっとも重要なファクターで、質の高い大学生にしっかりと教育することが人工知能時代に必要だと考えるならば文部科学省に討ち入りでもして大学の数を減らすかクローン槽を倫理的に解禁してベビーブームでも起こすしかないんじゃないかと思います。

 そして、繰り返しになりますが、初等中等教育においては日本の教育は確かに数学嫌いの傾向はあるもののPISAでは国際的に健闘していることもあり、しばらくはこのまま進んでいってしまうでしょう。それが良いかどうかは議論が分かれますが、外れ値を持つ子どもに対する教育で研究を重ねながら、その子どもの資質を把握し、学習の進捗に合わせた教育システムを構築する以外に改善策はないと思います。

 ただしそれは明治維新以降営々と続けてきた日本の公教育の大テーマを崩すことになりますし、また、遺伝的特性でその学問に向いているのかどうかは分かるようになってしまうことが私たちにとって本当に幸せなことなのかはよく議論する必要があります。学問を志したい親や本人の気持ちとは別に、遺伝的にはまったく学問に向いていないと結論付けられたことで、その人生が幸福で充実したものになるのかどうかは思案する必要があります。

 これらの議論を抜きにして、あまり個別の習熟度を問題視するのもむつかしいのではないか、と感じずにはいられません。

(修正 28日 0:08)

 文中、ご指摘があり誤った表現、記述がありました。謹んでお詫び申し上げますとともに修正させていただきます。ご指摘、ありがとうございました。