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「デマ」と呼ぶのはやめよう

山口浩駒澤大学グローバル・メディア・スタディーズ学部教授

このところ、大きな自然災害が続いている。

2018年9月4日に日本上陸した台風21号は関西地方を中心に大きな被害をもたらした。強風で多くの建物が破壊され、高潮もあいまって関西国際空港の滑走路やターミナルビルに浸水、さらに関西国際空港連絡橋にタンカーが衝突して連絡橋が一時通行不能になった。同6日早朝に発生した北海道胆振東部地震はM6.7の規模で、北海道で初めて震度7を記録するなど、各地で土砂崩れや液状化が発生しただけでなく、道内全域で停電が発生した。

こうした大災害時につきものなのがうわさや流言の類だ。今回も御多分に漏れず発生した。中でも北海道の地震に関しては、断水や携帯電話が使えなくなるといったものが広く流布し少なからぬ混乱を招いた。

見ていると、こうした記事では、ソーシャルメディアなどで拡散される、根拠が定かでないうわさの類を「デマ」と称することが一般的になっているようだ。しかしこの呼称はあまりよくないのではないか、と思う。デマをデマと判定するのはいうほど簡単ではない、という話は藤代さんがこちらの記事に書いておられるのでそちらをご参照。以下、ちょっとちがった観点から。

専門でもないし詳しく調べたわけでもないが、「デマ」ということばは古代ギリシアの煽動的民衆指導者に由来するものと理解している。英語だとデマゴーグ(demagogue)であり、我らがWikipediaによると「デマゴーグは普通、国家的危機に際し慎重な考えや行いに反対し、代わりに至急かつ暴力的な対応を提唱し穏健派や思慮を求める政敵を弱腰と非難する」とある。ドイツ語では政治的な目的を持ったプロパガンダのようなものをdemagogieと呼ぶようだが、これもその意味に近いのだろう。いずれにせよ、出所のはっきりしないうわさという意味合いは薄いように思われる。

英語だとこのことばはあまり聞いたことがない。あるのかもしれないが、ネットで検索してもドイツ語のページばかりヒットするし。一般的なうわさや流言はrumorと表現することが多いと思う(最近、そのうち意図的に虚偽を広めるものはrumor bombと呼んだりもするらしい)。

上掲記事における「デマ」は、政治的な扇動やうわさの要素もまったくないではないのだろうが、少なくとも日本では、もっと広く「ウソ」やその拡散を指すという意味で使われているのが一般的だと思う。このような意味での「デマ」が日本ではいつごろから使われているのか、例によって大学が契約している朝日新聞のデータベース『聞蔵II』で調べてみた。

「デマ」でまっさきに思い出すのは1923年の関東大震災時の朝鮮人に関するデマだ。しかし当時の記事には「デマ」ということばは見つけられなかった。たとえばその翌年のこの記事では「流言蜚語」と表現されている(本題からはずれるが当時からこれが「流言」、すなわち根拠のない話と解されていたことに注目)。

朝日新聞1924年(大正13年)1月7日朝刊

「続々帰国する鮮人労働者 素直で評判だつたが今では僅か三千五百名」

・・・昨年のあの大震災で朝鮮人に対する流言蜚語は遂に悲しむべき屠殺事件を起したので以来朝鮮人の帰国は日に一萬にも上る事さへあり現在東京に在住する朝鮮人は當時よりずつと減つて警視庁内鮮係の調査によると三千語百餘人にしか足りない・・・

では「デマ」の初出はというと、調べた限りでは1930年のこの記事。一時は大阪朝日新聞社にも属した外交官柳沢健氏のコラム的な文章だ。

1930年(昭和5年)6月27日朝刊

「デマと批評と」

・・・要するに、かうまでして自分の文章を故意に曲解し変解してソヴイエツトを擁護しようとするその無批判さに對してこそ、自分の文章は直接に向けられ有効に役立つのである。自分ににくむべきものがありとすれば、自分にいまだ眞相の判明せざるソヴイエツトでは決してなくて、眞相のことごとくはつきりしてゐる諸君のデマ的態度なのである。

ここでいう「諸君のデマ的態度」というのは、これに先立つ柳沢氏の著書がソビエト(この当時はロシア社会主義連邦ソビエト共和国)を批判したものと受け取った親ソビエトの人々が柳沢氏を批判していることを指しているようで、政治的意図をもった扇動の方に近い意味で使われていることがわかる。根拠のないうわさや流言を指したものとはいえないだろう。つまり、元の意味での「デマ」の用例も当初からあったわけだ。

しかしその後ほどなくして、今日と同じ「根拠のないうわさ」の意味で使われる「デマ」が突然記事に現れ始める。

1931年5月26日 東京/朝刊

 その日の本省 昂奮・デマ 重苦しい空気に満つ

1931年9月16日 東京/朝刊

 「ソヴエト以外の報告はみなデマ」 高橋、福本主義をコキ下す 共産党事件

1931年10月21日 東京/朝刊

 このデマを見よ 芳沢代表、理事会へ報告

1932年1月18日 東京/朝刊

 撲り込みのうわさに力士団の大警戒 デマは乱れ飛ぶ

1932年2月3日 東京/朝刊

 晴天なら、きょう旗揚げ興行 物騒なデマ乱れ飛ぶ内で 新興力士団決意す

1932年2月14日 東京/夕刊

 駐米支那公使館のデマ

1932年3月16日 東京/朝刊

 『非国民』の噂から商売もできぬ歎き 何者の悪戯、親子2代続いて 乱れ飛ぶデマ・深刻な被害<写>

1931年の「本省」とあるのは、その翌日第2次若槻内閣が「官吏減俸令」を公布したことに関係するのだろうか。大恐慌後の不況下、財政難への対策として行われたものだ。1932年2月の記事にある「力士団」というのはその前月に起きた相撲界の分裂危機「春秋園事件」に関する記事かと思う。これもお金がらみで若干労働争議めいた要素もあるが、少なくとも政治的な意図をもったものではなかろう。何かきっかけがあったのかもしれないが、少なくともこの時点で既に日本語の「デマ」は、政治的意図とは無関係の単なる「根拠のないうわさ」のような意味で使われている。

そして現在に至るわけだが、当時とまったくちがうことが2つある。1つはこうしたうわさや流言の拡散の場がソーシャルメディアに移ってきていること、そしてもう1つは、それと無関係ではないだろうと思うが、「デマ」が明確に「意図的なウソ」の意味に限定されてきているということだ。

うわさや流言の発生源やその真偽を確かめるのは難しくても、それらしい情報の拡散者の少なくとも一部をソーシャルメディア上で特定することは難しいことではない。そしてそうした人々に対しては「デマこき」だの「嘘松」だのといった悪口雑言が投げつけられることとなる。つまり「意図的なウソ」を流した、拡散したといわれてしまうわけだ。もちろん実際にそういう場合もあるだろう。しかしすべてがそうだとは思わない。

たとえば今回の北海道胆振東部地震における断水や携帯電話切れの流言はどうか。もちろん最初にこのような情報を流した人がどのような根拠で、どのような意図を持っていたかを知ることは、少なくとも私にはできない。しかし、たとえば以下のような(あるいはこれらと似たような)情報をツイッターで流した人は、本当に「悪意」だったのだろうか?

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※いずれもツイッターより。筆者によるスクリーンショットの上アカウント名部分を加工。

伝統的なモデルでは、流言の量はその重要性とあいまいさに影響される、とする。大きな地震が起きたとき、水や電気といったライフラインが気になるのは当然で、直後の混乱の中では不確定な要素が大きく、したがって不安にかられて人がさまざまな情報をやりとりするのはきわめて自然な行動だ。上記のようなツイートにおいて、「消防署に務める父」だの「災害対策本部の関係者」だのといった部分はどうみても故意に付け加えられたもので、それを悪意ととるのも不可能ではないだろうが、全体としては不安や善意ゆえのものと解釈する方が自然かと思う。

その意味でそれらの情報発信や拡散は、少なくとも社会を混乱に陥れてやろうとか、人を苦しめようとかいう意味での悪意によるものとは思えない。それを「デマ」と呼んでその発信者や拡散者を言葉汚く糾弾することには正直賛成できない。

そもそもソーシャルメディアは、個人ユーザーが自由に情報を発信したりシェアしたりして交流できるのがよいところだ。いってみればお茶の間や井戸端、喫茶店などと同じように、人が集まり交流する場となっている。もちろん何を発信してもよいということはなくおのずと制約があるのは当然だが、個人的な不安や憶測を書いたりするのはむしろ自然だろう。根拠がはっきりしないうわさでも目にすれば、他の人がそれをどう考えるのか聞きたくもなろう。公的機関の公式アカウントや著名人その他影響力の強い人々ならともかく(その意味でこういうものはよくない)、そうでない人々に過剰な責任を求めるのは適切ではない。

さらによろしくないのは、このように人を糾弾することで、「デマ」と呼ばれた情報の発信者や拡散者が逆にその意見に拘泥してしまったり、周囲との人間関係を破壊してしまったりするなど、かえって悪い結果をもたらしたりするおそれがあることだ。福島第一原発事故の放射性物質拡散についても、EM菌やホメオパシーなどの疑似科学、「代替医療」と呼ばれる根拠のない民間療法などについても、そうしたケースはみられる。

現代日本語において、ある情報を「デマ」と呼ぶことは、その発信者や拡散者を「ウソつき」と呼ぶこと、つまり批判ではなく罵倒に事実上等しい。事実に反する、あるいは根拠がないか薄弱であるならそのように指摘すればよいだけで、そもそも批判やまちがいの指摘に罵詈雑言は必要ではない。メディアがそれらをあえて「デマ」という強いことばで呼ぶのは、むしろ自らが発信する情報により多くの関心を集めたいといった利己的な動機によるものではないか、と勘繰りたくなる。

実際、かつてと比べて「デマ」ということばはより気軽に用いられるようになっているようにみえる。上掲『聞蔵II』で「デマ」を含む記事を過去30年間にわたって調べてみると、この2年ほどの間、「デマ」の出現頻度は明らかに上がっている(各年とも前年9月16日~当年9月15日までの1年間の件数)。過去数度あった「山」はいずれもそれなりに大きな事件などであることが多いようだが、このところはそれを超えるペースとなっている。

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以上のような理由で、災害時などにソーシャルメディア上などで拡散するうわさや流言を「デマ」と呼ぶのはやめたらどうか、と主張する。根拠が薄弱な情報は「根拠が薄弱な情報」と呼べばよいし、それが拡散しているなら「うわさ」、あるいは「流言」と呼べばいい。どうしても「デマ」と呼び抱ければ、意図的に発信され、かつ根拠のないものであることをきちんと確認してからにすべきだ。少なくともニュースメディアを標榜するなら、こうしたレッテル貼りではなく、事実を調べ伝えることに注力してもらいたい。

※追記注

引用記事の中に、現在では不適切とされる表現が含まれるが、記事の内容や当時の雰囲気をできる限り正確に伝えたいと考え、そのまま引用した。

駒澤大学グローバル・メディア・スタディーズ学部教授

専門は経営学。研究テーマは「お金・法・情報の技術の新たな融合」。趣味は「おもしろがる」。

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