「町から家が消えていく」いま浪江町で進む家屋解体

浪江町からいわき市に避難中の渡部テツさん(99歳) (C)ToruYAMADA

■浪江町の家屋解体

福島第一原発の事故で全町民(約21,000人)が避難となり、一時は町民がゼロになった福島県浪江町。あれから7年半が経過し、帰還困難区域を除く区域で町民の帰還が進む中、家主を失い空家となった家々が次々と解体されている。

町の関係者によれば「2年後に町内に残る家屋は震災前の約7,600世帯の半分になる」と話す。すでに浪江駅前の家屋は7~9月の2ヶ月でほとんどが解体され、更地になった。

今年3月末、国の公費で賄う旧避難指示区域の家屋の解体受付が締め切られ、帰還の判断に迷う多くの町民が、故郷の家を解体するか否かという非情な決断を迫られた。

このドキュメンタリーは、その中のひとつの家族を追った作品だ。

■再生する町、消えない傷跡

昨年3月末に帰還困難区域(町内面積約8割)を除く区域で避難指示解除となった浪江町は、居住人口が2018年9月末時点で848人(554世帯)。約21,000人いた震災前の人口の約4%に落ち込む一方で、居住者は毎月20人ほどのペースで上昇しており、町の灯は徐々に灯り始めている。

震災を経て8年ぶりに浪江町から出陣した野馬追の様子(2018年7月29日) 浪江町役場より提供
震災を経て8年ぶりに浪江町から出陣した野馬追の様子(2018年7月29日) 浪江町役場より提供

今年7月末に開催された相馬野馬追では、標葉郷の陣屋を構える浪江町から騎馬武者が8年ぶりに出陣し、その勇壮を見ようと多くの町民や観光客で町が賑わった。少しずつ、浪江町に人々の暮らしが戻ってきている。

だが、原発事故が残した傷跡は町の風景にしっかりと刻まれており、隠れることはない。目に入るのは、誰も住まなくなって荒廃した空家と更地の多さだ。

更地が目立つようになってきた現在の浪江町 (C)ToruYAMADA
更地が目立つようになってきた現在の浪江町 (C)ToruYAMADA
塀だけを残して消えた家 (C)ToruYAMADA
塀だけを残して消えた家 (C)ToruYAMADA

今年3月末、国は被災者支援として応じてきた公費による旧避難指示区域の家屋解体の受付を締め切った。

事業を担う環境省によると、受付件数は9月末時点で3,804件にのぼり、解体済件数は2,175件、これからさらに1,600件以上の家屋解体が進む。現在は、帰還困難区域における特定復興再生拠点の家屋解体も申請を受付けていることから、町内の更地は今後も増え続ける見込みだ。

「いつか故郷に戻りたい」

解体中の家屋 (C)ToruYAMADA
解体中の家屋 (C)ToruYAMADA

家があるのに帰ることができない多くの町民が今日までに家の解体を泣く泣く決心してきた。今年3月末から浪江町に滞在している私は、10月上旬に家の解体が終わったばかりの渡部さん一家の取材を続けている。

■あの日から揺れ続ける心

「夫は震災のときから時間がとまっているの。義理母のテツさんもそうかもしれない。現実を受け入れたくないんだね。苦しんできた人は前に行くの。でも、考えるのをやめてしまった人は、あのときから時間が止まっている――」

こう話すのは、浪江町からいわき市に避難をしている渡部茂子さん(75)だ。

渡部家(左から武政さん、テツさん、茂子さん) (C)ToruYAMADA
渡部家(左から武政さん、テツさん、茂子さん) (C)ToruYAMADA

私が渡部家の取材を始めたのは2018年6月末、茂子さんの夫・武政さん(75)が、解体前の家を整理し始めたときだった。認知症で震災の記憶を喪失し、「浪江町に帰りたい」としきりに懇願するテツさん(99)のために、テツさんが大事にしていた仏壇を避難先の自宅に持って行こうと計画していた。

茂子さんはこう過去を振り返る。

私たちは迷ってばかりいる。でも、震災直後の時間で止まっていたお父さんは最近変わってきたね。テツさんのために動くいまのお父さんは本来のお父さんになってきた。それまでのお父さんは何もしなかった。家に対する賠償手続きも、テツさんの介護もみんな私がやった。だから、私はその都度その都度、前に進んでいって、沢山学んだ。家に対する未練がないわけではないけど、私はもう、あの家に対して整理がついているの」

家屋解体が間近に迫った故郷の家に連日通い続ける夫の武政さんに対して、テツさんの介護をしながら、茂子さんは静かに自分の思いを綴った。

■武政さんの思い

3.11の写真集を見せることでテツさんに震災の記憶を想起させようと試みる武政さん (C)ToruYAMADA
3.11の写真集を見せることでテツさんに震災の記憶を想起させようと試みる武政さん (C)ToruYAMADA

4人兄弟の次男坊である武政さんは大熊町出身で、終戦後、両親と共に浪江町に移り住み、自宅兼職場の印刷所を開業。浪江町出身の茂子さんと結婚し、2人の子供を育てた。

震災時、印刷業は、活版印刷から時代のオフセット化とデジタル化の進展で業績が悪化し始めていた頃だった。約半世紀、家族と共に続けてきた印刷業は、事故を契機に廃業。仕事に追われる毎日がなくなり、武政さんはある意味で「自由」になった

仕事の代わりに生きがいとなったのは、震災前から趣味で続けてきたパークゴルフ。武政さんは県大会で優勝するほど没頭し始めた。

ゴルフ熱を上げたもう一つの理由は、母親・テツさんの介護だった。

テツさんを介護する茂子さん (C)ToruYAMADA
テツさんを介護する茂子さん (C)ToruYAMADA

避難の長期化はテツさんの認知症を悪化させた。武政さんは、次第に弱っていく母親の姿を受け入れられず、介護を茂子さんに任せ、さらにパークゴルフに打ち込むようになった。

武政さんが家の解体を決断したのは、武政さんの長男・弘道さん(48)が、浪江町の帰還を断念し、いわき市に新しい家を建てることで生活再建を決めたことが起因となっている。

「使わなくなった家をどうするか」

避難先のいわき市で悩み続けていた武政さんは、長男の弘道さんの意向を尊重し、自ら建てた浪江町の家を解体する決断をした。

■テツさんと家族のために

浪江町の渡部家の自宅 (C)ToruYAMADA
浪江町の渡部家の自宅 (C)ToruYAMADA

解体事業を担う環境省に解体申請を提出してから1年半後の2018年6月末、着工の日取りがようやく決まり、解体工事が目前となった矢先、テツさんの精神状態が急に不安定になり始めた。

「浪江町に帰りたい」

しきりにその言葉を連呼する母親・テツさんに対し、武政さんは、テツさんが大切にしてきた浪江町にある仏壇を避難先の自宅に持って帰ることで、母親への気持ちに応えることにした。私が渡部家の取材を始めたのはこの頃からである。

解体間近の自宅を整理する武政さん (C)ToruYAMADA
解体間近の自宅を整理する武政さん (C)ToruYAMADA

「処分していいのかな、だめなのかな」

避難先のいわき市から北に約80km離れた浪江町の自宅。武政さんはひとり、テツさんの部屋でもあった2階の仏間で仏壇を梱包しながら、今まで目にすることを避けてきた家の中に眠る別の物たちとも対峙することになる。

それは、家族や友人たちとの写真、親に宛てた手紙、子供たちが小さい頃に描いた絵や成績表、テツさんが趣味で作り続けてきた人形など、武政さんが浪江町で家族や仲間たちと築き上げた「証」の数々だった。

押入れの奥に閉まってあったテツさんの写真 (C)ToruYAMADA
押入れの奥に閉まってあったテツさんの写真 (C)ToruYAMADA

目にし、手で触れ、思いを巡らすーー

震災前からの埃に包まれたその物たちとの心の会話は、武政さんの記憶の奥底に堆積していた何かをかき乱し始めた。武政さんを撮影していたある日のこと、彼は突然一つのアイディアを私に話し始めた。

「解体工事が始まる前にお袋を浪江町に連れてきて、家族全員でおむすびを食べたい。これができれば家に対する私なりのケジメがつけられる」

そう話した武政さんは、今までほとんど手付かずだったテツさんの部屋の荷物を整理し、ここで家族全員が食事ができるよう、解体を目前に控えた埃だらけの家を掃除し始めた。

仏壇の引越しがきっかけで始まった武政さんの一時帰宅は、彼の心の進路を思わぬ方向へと変えていった。

■家族と食卓を囲んで

武政さんが自宅の整理を始めてからひと月が経過した7月末。テツさんを含めた渡部家親族一同が浪江町の家に集い、全員で食事をする時間が設けられた。

解体間際の浪江町の家で昼食をとる渡部家 (C)ToruYAMADA
解体間際の浪江町の家で昼食をとる渡部家 (C)ToruYAMADA

家族が集い、食卓を囲み、おむすびを食べるーー

かつては当たり前にあった家の日常の情景が、武政さんの願いで再現されたのだった。その時間は、武政さんが震災を契機に長らく失っていた家族や故郷との絆を取り戻した瞬間だったかもしれない。

一方のテツさんは、いわきから浪江町に向かう道中、生家がある大熊町の風景を見たり、浪江町の家に戻ったことで、辻褄が合わないながらも震災の記憶を次々と想起させていった。テツさんの様子は映像で描いた通りである。

■解体された家

9月下旬、渡部家の家は解体され、翌月10月初旬には完全な更地になった。

更地になった渡部家。今まで見えなかった隣家の背中が顔を出した (C)ToruYAMADA
更地になった渡部家。今まで見えなかった隣家の背中が顔を出した (C)ToruYAMADA

家があった場所にカメラを向けてみても、家の存在感は全くと言っていいほど皆無であり、始めからそこは更地だったかのように更地にしか映らない。唯一の痕跡は、更地の上に無言で立つ解体受付番号が記された白い小さな看板だ。

解体が完了すると受付番号が記された看板が立つ (C)ToruYAMADA
解体が完了すると受付番号が記された看板が立つ (C)ToruYAMADA

解体されて細かく分別された家屋の断片たちはいま、廃棄物となり、黒いフレコンバックの袋に入れられて、津波で壊滅した浪江町・請戸地区の仮置場で焼却を待っている。

請戸地区にある家屋解体物の仮置場。奥の建物は焼却施設 (C)ToruYAMADA
請戸地区にある家屋解体物の仮置場。奥の建物は焼却施設 (C)ToruYAMADA

■「復興」とは何か

東日本大震災と原子力災害から8年を迎えるいま、私たちが耳にし口にする「復興」という言葉には、被災した町や家族の姿が映っているだろうか。

解体される家はただの「解体家屋」なのか。更地はただの「更地」なのか。除染される場所や山積みになったフレコンバックはただの「汚物」なのか。それが消えれば「綺麗」なのか。

「復興」という言葉の真意を、借り物の言葉ではない自分自身の言葉で見出すこと。震災から手付かずの家屋に降り積もった埃のように、私たちの言葉にも降り積もった7年半分の埃があるとするならば、それは一度拭い取ってみる必要があるのではないか。

今日も浪江町では、重機車両の振動と警音が町中に響きわたり、新しい更地が生まれている。家族の物語がまた一つ、消えていく。(了)

2018年10月現在の浪江町。これから1,600棟以上の家屋が解体される (C)ToruYAMADA
2018年10月現在の浪江町。これから1,600棟以上の家屋が解体される (C)ToruYAMADA

【この記事は、Yahoo!ニュース個人の動画企画支援記事です。オーサーが発案した企画について、編集部が一定の基準に基づく審査の上、取材費などを負担しているものです。この活動は個人の発信者をサポート・応援する目的で行っています】