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「mRNAワクチン」で人類を救ったカタリン・カリコ博士の物語

山田順作家、ジャーナリスト
カタリン・カリコ博士(写真:Wikipedia)

 日本でいま接種されている新型コロナウイルスのワクチンは、ファイザー/ビオンテックとモデルナの2種類。どちらも「mRNAワクチン」で、このタイプのワクチンは人類史上初めてつくられたものだ。そして、その生みの親と言われるのが、ハンガリー出身の生化学者カタリン・カリコ(Katalin Karikó)博士。

 ところが、日本では彼女に関する報道が少ない。3月に毎日新聞が「テディベアに全財産しのばせ東欧から出国 ワクチン開発立役者」という記事で紹介。5月にNHKが「クローズアップ現代」で、山中伸弥教授による彼女のインタビューを放映したが、この2つがこれまでのなかでは大きな報道で、それ以上の報道はない。

 しかし、彼女がいなければ、「mRNAワクチン」は誕生しなかった。彼女が、人類を救ったと言っても過言ではない。そこで、これまで私は、欧米メディアなどをあたって自身のメルマガやサイト、フェイスブックなどで、彼女のストーリーを書いてきた。

 以下は、それらをダイジェストし、わかりやすくまとめたもの。これを機会に、ぜひ、彼女の功績とライフヒストリーを知ってほしいと思う。

■半世紀前に確認されたmRNAの存在

 mRNA(メッセンジャー・アールエヌエー)の存在は、半世紀前から知られていました。最初にその存在を指摘したのは、フランス人の生物学者ジャック・モノーとフランソワ・ジャコブで、この2人は1965年にノーベル生理学医学賞を受賞しています。その後、この研究を引き継いで、アメリカの遺伝生物学者のマシュー・メルセンが、mRNAの存在を実証しました。

 彼らの功績は、DNAに書かれた情報がmRNAを介してタンパク質の合成にいたるという分子レベルの仕組みを解析したことです。

 東欧の小国ハンガリーの女性生化学者カタリン・カリコ博士は、この仕組みに注目しました。mRNAがタンパク質を合成するという仕組みを利用すれば、将来必ず医療に貢献できると考えたのです。当初、彼女は、がん治療にmRNAが利用できればと思っていたと言います。

■900ポンドをぬいぐるみに隠して渡米

 カリコ博士は、1955年生まれ、今年で66歳。

 ハンガリーの首都ブダペストから東におよそ150キロ離れた地方都市ソルノクで生まれ、近隣のキシュウーイーサーラシュ市で育ちました。実家は貧しく、父親は精肉業を営んでいました。

 小さいころから非常に優秀で、大学は最難関校の国立セゲト大学に進み、卒業後はハンガリー科学アカデミーの奨学金を得て、地元の研究機関の研究員となりました。その間、RNA(リボ核酸)の研究で博士号を取りました。

 ところが突如、政府からの研究資金が打ち切られることになり、アメリカ行きを決意します。1985年、カリコ博士は夫と幼い2歳の娘とともに渡米します。

 当時はまだ冷戦時代。ハンガリーは、西側への通貨の持ち出しを厳重に制限していました。しかし、アメリカにツテがないカリコ一家は、生活費を持ち出さなければ暮らしていけません。そこで彼女は、娘が大事にしていたクマのぬいぐるみのテディベアの中に、全財産の900ポンドを隠したのです。 

 渡米後、彼女はペンシルベニア州のテンプル大学で研究員となり、その後ユーペン(U.Penn:ペンシルベニア大学)に移って、助教授となり、mRNAの研究に没頭しました。

 しかし、彼女の研究は評価されませんでした。

 そのため、研究費もしばしば削られたと言います。そんななか、HIVのワクチン開発の研究をしていたドリュー・ワイスマン教授と知り合い、彼と共同で、2005年、今回のワクチン開発に道をひらく画期的な研究成果を発表したのです。しかし、これもほとんど注目されませんでした。

 こうして、2010年にはmRNAの関連特許を大学が企業に売却してしまったため、彼女の研究は事実上、頓挫してしまいました。

■ドイツのビオンテックが研究に着目

 失意の彼女を救ったのが、ドイツのバイオ企業ビオンテックでした。2011年、ビオンテックは、彼女をドイツに招き、研究を続ける契約を結びました。

 ビオンテックの創業者のウール・シャヒン博士と妻のエズレム・テュレジ博士は、ともにトルコ系ドイツ人。2人とも医師で最先端医療の研究者だったので、彼女の研究の価値を見抜けたのです。

 mRNAは、体内で炎症反応を引き起こしてしまうため、長年、薬などの材料として使うのは難しいと考えられていました。しかし、カリコ博士とワイスマン教授の共同論文は、mRNAを構成する物質の1つ「ウリジン」を「シュードウリジン」に置き換えると炎症反応が抑えられることを指摘していたのです。

 ここに、ビオンテックのシャヒン博士は着目したのです。

■いまやビオンテックの株価は天井知らず

 新型コロナウイルスの表面には「スパイクたんぱく質」(spike protein)と呼ばれる突起があり、ウイルスはここを足がかりとして細胞に感染します。mRNAは、この突起の部分のいわば「設計図」にあたり、ワクチンを接種すると、これをもとに細胞の中でウイルスの突起の部分だけが体内でつくられます。

 そして、この突起によって免疫の仕組みが働き、ウイルスを攻撃する「抗体」がつくられるのです。

 2020年3月、ビオンテックはアメリカの製薬大手ファイザーとmRNAを用いた新型コロナウイルスワクチンの開発を開始すると発表し、世界を驚かせました。新型コロナウイルスの感染が全世界的に拡大する前のことです。当時、日本では、クルーズ船の感染で大騒ぎでした。 

 アメリカ政府は、多額の補助金を出し、mRNAワクチンの開発に賭けました。ビオンテックは2019年にナスダックに上場していましたが、いまやその株価はワクチン開発の成功で天井知らずになっています。

■モデルナもまたカリコ博士の研究に注目

 モデルナのワクチンも、カリコ博士の研究に基づいてつくられています。

 モデルナは、2010年にハーバード大学の生化学者デリック・ロッシ博士によって、ボストンで創業されました。ロッシ博士は、カリコ博士の2005年の論文を読んで、即座に「これはノーベル賞に値する」と直感したと言います。

 ロッシ博士はカリコ博士と同じく、早くからmRNAの医療への応用を考えており、MIT(マサーチューセッツ工科大学)のロバート・ランガー博士を引き入れて研究を開始しながら、資金集めに奔走しました。クラウドファンディングの技法を使いましたが、資金集めと経営に大きな貢献をしたのは、フランスからCEOとして招いたビジネスマンのステファン・バンセル氏です。

 アメリカ政府は、国防省傘下の「DARPA」(防衛先端技術研究計画局)をとおして、2013年からモデルナに資金援助をしてきました。また、今回は、保健福祉省傘下の「BARDA」(生物医学先端研究開発局)をとおして、いきなり9億5500万ドルの補助金を出しました。

 モデルナも、2018年にナスダックに上場しています。まだワクチンを1つもつくっていないにもかかわらず、「ユニコーン」(スタートアップしてからの10年以内で企業価値が10億ドル以上になる企業)となり、いまやその株価の時価総額は9000億ドル(約9兆9000億円)に迫っています。

■今年か来年のノーベル賞の最有力候補

 イギリスの「ガーディアン」紙は、「研究者としての環境を求めてクマのぬいぐるみにわずかなお金を隠してアメリカに渡った研究者が、いまではノーベル賞の有力候補と言われている」と、賞賛しました。

 NHKのインタビューで、カリコ博士はこう語っています。

「物事が期待どおりに進まないときでも、周囲の声に振り回されず、自分ができることに集中してきました。私を『ヒーローだ』と言う人もいますが、本当のヒーローは私ではなく、医療従事者や清掃作業にあたる人たちなど感染のおそれがある最前線で働く人たちです」

 現在、彼女のストーリーは多くのメディアで見聞きできます。NHKのインタビューはダイジェスト動画が配信されています。

 https://www.nhk.or.jp/d-garage-mov/movie/41-524.html

 CNNの番組「CUOMO PRIME TIME」に出演して、人気司会者のクリス・クオモのインタビューに答える動画「Scientist reveals how she celebrated successful vaccine trials」は、CNNのサイトで視聴できます。

https://edition.cnn.com/videos/health/2020/12/15/katalin-karik-biontech-senior-vice-president-mrna-cpt-vpx.cnn

 彼女の地元メディアの「Hungary Today」のサイトには、「Pfizer-BioNTech Vaccine Creator Karikó: Research Is My Passion, I’m Not A Hero, Healthcare Workers Are the Heroes」という詳しい記事が掲載されています。

 https://hungarytoday.hu/katalin-kariko-zoran-inspiration-pfizer-biontech-vaccine-creator-klubradio/

 現在、ネットフリックスは、彼女のドキュメンタリーを制作していると言います。

作家、ジャーナリスト

1952年横浜生まれ。1976年光文社入社。2002年『光文社 ペーパーバックス』を創刊し編集長。2010年からフリーランス。作家、ジャーナリストとして、主に国際政治・経済で、取材・執筆活動をしながら、出版プロデュースも手掛ける。主な著書は『出版大崩壊』『資産フライト』(ともに文春新書)『中国の夢は100年たっても実現しない』(PHP)『日本が2度勝っていた大東亜・太平洋戦争』(ヒカルランド)『日本人はなぜ世界での存在感を失っているのか』(ソフトバンク新書)『地方創生の罠』(青春新書)『永久属国論』(さくら舎)『コロナ敗戦後の世界』(MdN新書)。最新刊は『地球温暖化敗戦』(ベストブック )。

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