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ノビチョクとは?有機リン製剤と化学兵器について

薬師寺泰匡救急科専門医/薬師寺慈恵病院 院長
化学兵器の禁止を!そして拡散に抗議の声を!!(写真:アフロ)

ノビチョクとは

ロシアの反体制派指導者アレクセイ・ナワリヌイ氏(44)が、移動中の飛行機内で意識障害となり、ベルリンで治療されている件に関し、ドイツ政府は、旧ソ連の軍事用神経剤「ノビチョク」に属する毒物が使われたと発表しました。政治的な話は今回触れません。医学の面から、ノビチョクを説明してみたいと思います。

ノビチョクは、いくつかの神経剤をあらわし、ロシア語で「新人」を意味します。医学的にはコリンエステラーゼ阻害剤に分類されます。主にアセチルコリンエステラーゼを阻害するものとして、有機リン系農薬(マラチオン[商品名マラソン]、フェニトロチオン[スミチオン]など)が有名です。その他、悪名高きVXやサリンなどもコリンエステラーゼ阻害剤です。早い話が、ノビチョクはこれらの仲間で、新人、つまり新しいものです。

アセチルコリンエステラーゼ阻害剤

アセチルコリンエステラーゼと言われてもピンとこないと思われます。基本的に「ーゼ」がつくものは、そのものを分解するものを指します。デンプン中のアミロース(amylose)を分解する酵素はアミラーゼ(amylase)です。薬師寺を分解する酵素があれば、ヤクシジャーゼ。というわけで、アセチルコリンエステラーゼとは、アセチルコリンエステルを分解するものということになります。

人体の中にはアセチルコリンという物質があり、これがスイッチとなり働くシステムがいくつかあります。特に、副交感神経の情報を伝達する役割として重要です。このアセチルコリンは、コリンと酢酸(acetic acid)がエステル結合して出来たもので、アセチルコリンエステラーゼがあるとアセチルコリンのエステル結合が分解されていくことになります。アセチルコリンが分解されなければアセチルコリンが溜まってしまい、副交感神経優位になり続けたり、他のアセチルコリンによる作用も増強されたりして体に不調をきたすことになります。この働きを利用して殺虫剤、農薬として日々の生活に役に立っている一方、人に使用することで悲しい結果をも生んでいるのです。

アセチルコリン過剰の影響

アセチルコリン過剰となり副交感神経が激烈に優位になると、脈が落ちたり、血圧が下がったりします。また、アセチルコリンは粘液分泌の調整にも関わるので、刺激されることでいろんなところから液体が漏れます(流涎、流涙、気管支分泌過多、尿および便失禁、嘔吐)。ほかにも、気管支収縮、縮瞳が見られ、中枢神経症状として不安、興奮、錯乱、痙攣発作、呼吸失調や人格障害も起こるとされています。神経筋接合部の作用では筋痙攣、筋力低下を起こします。これらが重なり、心不全や呼吸不全で死に至るのです。

ノビチョクの毒性

ノビチョクは、VXの数倍の毒性があるとされます。2017年に、金正男がVXで毒殺された事件がありました。大阪でもオウム真理教がこれを用いて殺人をしたということで話題になりました。アセチルコリンエステラーゼ阻害剤には、サリンやソマンに代表されるようなG剤(ドイツで作られたのでGerman gasが語源となる)と、V剤(Venomの頭文字)があります。VXはV剤が開発されたなかの24番目の薬剤だったのでXと名付けられVXと呼ばれるようになりました。

余談ですが、VXガスと呼ばれるものの、VXはグリセリンのような油っぽい液体で、揮発性に乏しいです。全然ガスではありません。映画「ザ・ロック」で使用されていましたが、ガス感が誇張されていたり、いかにも毒々しい見た目になっていたり、映画ならではの表現が多かったように思います。VXを散布するときにはミスト化して噴霧します。これが流れ出て、20-30kmの範囲の動物が死滅したこともあったようで、ミスト化したものは風にのってかなり広がる可能性が示唆されます。VXは10mgを皮膚に垂らすだけで致死的ですから、これを殺傷目的に使用することの恐ろしさがわかると思います。

話を戻し、ノビチョクはもともとVR製剤でしたが、改良(改悪と言いたいが)が加えられ、VXよりも遥かに高い致死性を持ちました。当然化学兵器禁止条約などで禁止されていますし、持ち運びにかなり難があるのですが、ノビチョクは毒性の低い2つの化合物を使用直前に混ぜて完成させるという特徴があります。規制をすり抜けながら、水面下でこの様な化学物質が出回っていることは恐ろしいことです。

アセチルコリンエステラーゼ阻害剤の治療

治療としては薬理反応に拮抗すべくアトロピン(アセチルコリン受容体阻害薬)を使用したり、アセチルコリンエステラーゼの酵素活性中心に結合した有機リン剤を切断する効果をもつオキシム剤(ヨウ化プラリドキシム:PAMなど)を投与することになります。一般的な有機リン系農薬であれば救命できることも多いのですが、VXは短時間で症状発現して死に至るので、助かった例はありません。映画「ザ・ロック」のニコラス・ケイジは、映画だから助かったのだと思われます。命が助かれば良いと言うものでもありません。サリン事件では多くの後遺症を抱える方がいらっしゃいます。ノビチョクの使用が話題になっているのは、そういうことです。このようなものを許してよい訳がないのです。

最後に

日本は初めてVXによる殺人が行われ、そしてサリンによる、もっといえば唯一化学兵器による無差別テロが行われた国です。今一度、このような化学兵器が使用されていることに対して強く抗議の声をあげていくべき状況と考えます。

救急科専門医/薬師寺慈恵病院 院長

やくしじひろまさ/Yakushiji Hiromasa。救急科専門医。空気と水と米と酒と魚がおいしい富山で医学を学び、岸和田徳洲会病院、福岡徳洲会病院で救急医療に従事。2020年から家業の病院に勤務しつつ、岡山大学病院高度救命救急センターで救急医療にのめり込んでいる。ER診療全般、特に敗血症(感染症)、中毒、血管性浮腫の診療が得意。著書に「やっくん先生の そこが知りたかった中毒診療(金芳堂)」、「@ER×ICU めざせギラギラ救急医(日本医事新報社)」など。※記事は個人としての発信であり、組織の意見を代表するものではありません。

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