「テレビっ子歴38年」てれびのスキマさんが視聴者目線を持ち続ける理由【発信の原点】

「テレビがつまらなくなった」「テレビは死んでしまった」「今のテレビは面白くない」――テレビはもうダメだ、といった論調が目立つ昨今。

「ネットでテレビについて言及された記事は、基本的に批判的なものが多く、そんな現状が嫌だった」。そう語るてれびのスキマさんは、辛口な批評ではなく「褒める」スタイルの記事を数多く執筆しています。

考え方の軸にあるのは「面白いものを面白いと言いたい」素直な気持ち。テレビ番組は本や雑誌などとは違い、“形あるもの”として残らず、流れていくのが特徴です。「観た後は『面白かった!』と感動しても、何もしなければ曖昧な記憶になってしまいます。それがもどかしく、記録しておきたいと思ったんです」。

ブログを書き始めて数年経った頃、水道橋博士に才能を見出され、Webや雑誌でコラムを書くようになり、「これはスゴい」と話題を集める最新刊は増刷。30代の書き手の中で頭ひとつ抜けたように見えるスキマさん。

一方で、ご本人は「ぼくの文章なんて読めたもんじゃないです……」と自信のなさをうかがわせたり、「雑誌の編集者になりたかった。今もなりたいです」と語ったりと、意外な一面を覗かせます。

そんなスキマさんにテレビへの愛あふれる記事を発信し続ける原点を伺いました。

■ブログ開設のきっかけは「フライデー襲撃事件」

――どこかのインタビューで「1日6~7時間はテレビを観る」とおっしゃっているのを拝見しました。いつ、記事を書いているんですか?

専業ライターになってから、テレビを観る時間はもっと増えましたね(笑)。1日7~8時間くらいでしょうか。夕方6時頃~深夜2時に就寝するまでは、テレビを集中して観る時間。これは昔から変わりません。書くのは朝です。

――書く場所はやはりご自宅ですか?

はい。ぼくの記事はテレビを観て、事実確認をしながら書く必要があるので、基本的に自宅で書いています。

――2013年に独立、専業ライターになられました。そもそも「文章を書くのが好きだ!」と目覚めた時期はいつだったんですか?

中学生の頃ですね。当時の担任が教育熱心な方で、毎日日誌を書かされていたんです。面倒くさがって適当に書いているクラスメートが多いなか、ぼくは楽しみながら書いていました。発信の原点といえるかもしれません(笑)。

――その後も書き続けていたんですか?

高校に入ってからは何も書かなくなっていました。それでも文章自体は好きで、大学は国文学科に進みましたし、本もたくさん読んでいました。

――文章を書くという行為から離れていた時期もあったんですね。その後、ブログを2005年に開設したきっかけは何だったんですか?

「フライデー襲撃事件」(1986年12月9日、ビートたけし、たけし軍団ら12名が写真週刊誌『フライデー』編集部を襲撃した事件)って、ご存じですか?

――有名な事件ですよね。私は当時0歳だったので、詳しい内容はあまりわかりませんが。

ぼくも当時小学校低学年でしたから、事件の内容については詳しくなかったんです。そんなフライデー襲撃事件が気になって、あるとき検索していたんですが、ネット上に情報がほとんど出てこないんですよ。これは関連書籍を探して調べるしかないと思い、本を読んでいると非常に興味深い事件で。自分が調べたこと、知ったことをネット上に残しておきたくて、ブログに書こうと思いついたんです。

――開設後、すぐに書いたんですか?

いえ、最初は別の記事をためていって、アクセスがある程度増えたタイミングで書きました。

――そのブログが水道橋博士の目に留まって……という話は有名です。ブログ開設からどれくらい経ったときに、博士とつながったのでしょう?

4~5年経った2010年頃ですね。ちょうどぼくがTwitterを始めて間もない頃、博士からフォローされたんです。まず、そこでびっくりしました。

――ですよね(笑)。

まだびっくりは続きます(笑)。ある日「ネプリーグ」(フジテレビ系)を観ていたら、ロザン・宇治原史規さんが出演されていたんです。ぼくが宇治原さんをちゃんと認識したのは、恥ずかしながらその日が初めてでした。それをツイートしたところ、博士からリプライをいただいて。

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――またまた驚きますね。

「そんなにテレビを観ているのに(宇治原さんを)知らないなんてびっくりしたよ」といった内容で。ぼくはリプライをいただいたことに、まずびっくりでしたが(笑)、その直後にDMまでいただいて。そのときに、ブログが面白いと褒めてくださったんです。しばらくはご一緒する機会もなく、数年後ライブに伺ったときにご挨拶し、今に至りますね。

■どんな記事でも「視聴者目線」は忘れずにいたい

――そうやってブログを続けていて、ライターの仕事が舞い込んできたのはいつ頃でしたか?

2009年頃です。当時はぽつぽつと依頼が来る程度でしたけどね。

――連載を持つようになったのは何年頃からですか?

2012年頃からです。その当時、連載と並行して『タモリ学』(2014年3月刊)の執筆を始めていました。でも、なかなか手がつけられなかった、というのを思い出しました。

――やはりお仕事との両立は難しかった、と?

会社員時代は平日の夜といえばテレビを観る時間で、週末に原稿執筆をまとめてやっていたんです。だから、短い連載は書けても、書籍を執筆するまとまった時間を確保できずにいましたね。樋口毅宏さんの『タモリ論』(2013年7月刊)が出たときは、焦る気持ちでいっぱいでした。

――それが会社員を辞めて、フリーになる引き金となったんでしょうか?

2011年には独立を意識していました。もともと「最低10年は勤めよう」と決めていて、実際に辞めたのは勤続11年目になる2013年です。

――その年、Yahoo!ニュース 個人でも執筆をスタートしました。ヒット記事が多いですが、執筆時や公開時にどんなことを意識していますか?

執筆時は中見出しを入れたり、一文を短めにしたりと、読みやすさを意識しています。キャリアがブログから始まっているのが関係しているのかもしれません。最後にスマホで閲覧したときのプレビュー画面もチェックしますしね。

――スマホで記事を読む方は増えていますからね。

ええ。公開時はなんとなく「記事を読む人が多いであろう時間帯」を意識していますね。昼休みや夕方の帰宅時間に公開することが多いです。それがどれくらい効果的なのかはわかっていないんですけどね(笑)。

――Yahoo!ニュース 個人以外でも、様々な媒体で書かれていますが、ネタの書き分けについてはどう考えていますか?

それがけっこう難しくて。Yahoo!ニュース 個人は老若男女に読まれる媒体ですから、テレビを観ない人にも響く記事を書いているつもりです。問題提起を含むテーマを選ぶことが多いですね。

――「文章の型」もカッチリ決まっていますよね。ネットや図書館などを駆使して集められた“点”のようなデータが、スキマさんの地の文とつながって“線”となり、とても読みやすいんです。

ぼく、高橋源一郎さんが好きで、書評をよく読んでいたんですよ。引用の使い方がすごくお上手で、ぼくは高橋さんの文章の影響を受けていると思います。

――ご著書『1989年のテレビっ子』で「僕は現実にある“事実”よりも、テレビが映した“真実”の断片で物語を綴っていきたい」と書かれていました。それは一般の視聴者も見知ることのできる、表に出た情報だけを使って視聴者目線で書く、ということですよね。今では芸能人やタレントの取材・執筆をされていますが、そういったお仕事においては、このスタンスは変わるのでしょうか?

視聴者目線で書くというスタイルは、どちらかというと消極的に落ち着いて、そうなったものなんです。当時、地方在住で、マスコミ勤務でもなかったぼくは、著名人に取材できる立場でもありませんでしたし。プロになった今、状況は変わりましたが、視聴者目線でいることは、ぼく自身の強みだと思います。だから、取材するか否かにかかわらず、どんな記事においても、視聴者目線という意識は常に残しておきたいんです。

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■『KAMINOGE』的なテレビ雑誌を創刊するのが夢

――スキマさんにはテレビに関する質問もしておきたいです。やはり、よく言われるように「テレビ離れ」は進んでいるんでしょうか? 個人的にはテレビは未だに大きな影響力を持っていると思うんですが。

正確に言うと「テレビ番組は見ているけれど、それをテレビで見る人がいなくなった」ということだと思います。テレビのコンテンツは見ていても、それをネットなどで見ているため、テレビの収入につながっていない現状があります。だからといって、番組の質が下がったとは思いませんし、コンテンツは面白いんですけどね。だからぼくは素直に、面白いものを「面白い」と書き続けているわけです。

――同感です。これも気になっていたのですが、スキマさんをテレビっ子にする原点となった番組は何だったんでしょうか?

うーん……(しばし熟考)。テレビの観方が劇的に変わったのは、ぼくが大学生くらいの頃に放送していた「進ぬ!電波少年」(日本テレビ系、1998年~2002年)内で「電波少年的懸賞生活」や「電波少年的無人島脱出」などの企画を観てからですね。「電波少年的」と付けるだけで、番組のパッケージになるんだ、と衝撃を受けたんです。バラエティ番組を観て初めて“作り手”を意識した瞬間でした。それまでは演者ばかりが目に入り「この芸人さんは面白いなぁ」「このタレントさんはスゴいなぁ」などと感じていましたが、それ以降、番組の作り手や作り方に注目するようになりましたね。

――それでも、テレビの道へ進むことはなかったんですね。

ぼくは発想力やユーモアが欠如しているので(笑)、自分でテレビ番組や企画を作るなんて、想像したことがないんです。それに、子どもの頃からずっとテレビを観てきましたから「テレビは観るもの」「視聴者でいたい」という思いも強くありました。

――この先テレビはこう変わっていくべき、といったお考えはありますか?

テレビは影響力があっても、今や「王様」ではないわけですから、ネットを敵視するのではなく、うまく活用したほうがいいと思います。とくにSNSなんて昔のお茶の間みたいな役目を果たしていますからね。若い世代の作り手はネットを味方につけて制作しています。そもそもテレビとネットは共存できるものです。ぼく自身もテレビを観ながらTwitterで実況していますし、とくにテレビとTwitterの相性は抜群だと思いますよ。

――将来、テレビとよりディープに関わる仕事をされる予定はありますか?

テレビの雑誌を作りたいと思っています。ことあるごとに周囲に言ってるんですけど、皆のってくれなくて(笑)。

――面白そうですよ! イメージしているものに近い雑誌はありますか?

『KAMINOGE』(雑誌『紙のプロレス』の後継誌として「世の中とプロレスするひろば」と銘打ったプロレス、格闘技を中心とした書籍。発行は東邦出版)がイメージに近いですね。5年以内には発行したいなぁと夢見てます。

――編集長就任ですね! といっても、スキマさんはご自身で執筆しながら、同時に編集もしている印象があります。膨大な資料を集めて、それを適切な位置へ当てはめていって……これは編集者そのものなのではないかとお見受けしていました。

おっしゃる通りで、書きながらも編集している感覚があります。ぼく自身、編集者寄りなタイプだと思うんです。文章は苦手だし、面白いことは書けないし……だから、書き手という意識は正直、あまりないですね。

――文章は苦手って……謙遜しすぎです(笑)。スキマさんの記事や書籍を読む人は誰もそう感じていないはず。

いや、本当です。さらに編集の話をすると、学生の頃、雑誌の編集者になりたかったんですよ。出版社に入れるような学歴ではなかったんですけどね。。好きなことを何でも自由に書けるブログを始めたとき「自分の雑誌をWeb上で作れる!」といった思いもありましたし。テレビ番組だけを純粋に取り扱った雑誌は今ないので、勝機はあると思っているんですよね。

――確かに。雑誌を作ると“場”が生まれて、新たな書き手も出てきやすくなりそうです。

そのジャンルを活性化させるのは、書き手や語り手です。「活字プロレス」という文化があったおかげで、独自の発展を遂げた日本のプロレスが好例だと思います。だから、テレビの雑誌を作って、テレビ番組というジャンルの書き手を充実させること――それがぼくの今一番の野望です。

――ありがとうございました。

面白いものを面白いと言う。好きなものを好きと言う。上から目線な批評ではなく、一視聴者として、誰よりもテレビ愛あふれるテレビっ子として、執筆し続けるスキマさんの真摯な思いにふれられた取材となりました。これからもその発信に注目していたいです。

プロフィル

1978年生まれ、2015年にいわき市から上京。お笑い、格闘技、ドラマなどを愛する、テレビっ子ライター。現在『水道橋博士のメルマ旬報』『日刊サイゾー』『週刊SPA!』『日刊ゲンダイ』などにテレビに関するコラムを連載中。戸部田誠名義で『タモリ学 タモリにとって「タモリ」とは何か?』(イースト・プレス)、『有吉弘行のツイッターのフォロワーはなぜ300万人もいるのか 絶望を笑いに変える芸人たちの生き方』、『コントに捧げた内村光良の怒り 続・絶望を笑いに変える芸人たちの生き方』(コア新書)を刊行。今年2月には『1989年のテレビっ子』(双葉社) が発売された。

聞き手・執筆:池田園子

撮影:山本宏樹/deltaphoto

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Yahoo!ニュース 個人に寄稿する“オーサー”たち。政治からスポーツ、エンタメまで、幅広い分野の専門家であるオーサーは、なぜ発信を継続するのか。その理由に迫る特別企画『発信の原点』をシリーズでお伝えしています。

第1回 原田謙介さん

楽観8割で「若者と政治」に挑む原田謙介さんの10年間【発信の原点】

第2回 篠田博之さん

なぜ極悪人と断罪される「犯罪者」の声を届けるのか~「創」編集長 篠田博之さん【発信の原点】