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【夏休みの宿題を再考する】「読書感想文」何を読み、何を書けば良いのか?

矢萩邦彦アルスコンビネーター/知窓学舎塾長/多摩大学大学院客員教授
(写真:Paylessimages/イメージマート)

夏休みになり、筆者の元にも読書感想文に関する相談が増えてきた。大前提として、従来の感想文課題に対して意味ややりがいを感じていたり、それによって成長したと感じているなら問題はないが、年々「読書感想文」の学習効果や評価に対して疑問を持つ保護者が増えてきているように感じる。これは、探究型の学びに注目が集まっていることと同様、社会の変化と無関係ではないだろう。

読書感想文にまつわる悩み

「興味のない本を指定されている」「いったい何を書いて良いのか分からない」その結果「本を読むことが嫌いになった」。いままで私が相談を受けた中で、これらが最も多い悩みの類型だ。これは小学生と保護者だけの問題ではない。「読書感想文をどう評価して良いのか分からない」という声は、若手だけでなくベテランの教師からも聞こえてくる。最近では、電子書籍を認めるかどうかという新たな問題も浮上し、より混迷を極めている。

まず「興味のない本を指定されている」についてだが、これは至極あたりまえの指摘である。活字が苦手だったり、読書習慣がない子どもにとっては苦行でしかない。せめて興味のあるテーマの本から選ばせてあげたいところだ。「いったい何を書いて良いのか分からない」については、別に興味のない本を読んで感想を言えと言われても、これは大人でもむずかしい。「つまらなかった」あるいはそれ以前に、「興味ない」「別に読みたくない」というところで感想が終わってしまう。では、いったい何を読み、何を書けば、成長につながる課題になるだろうか。

何を読めばいいのか?

何を読めばいいのかについて考えてみたい。課題図書というシステムは常々問題視されていた。これは特定の書籍の売上につながることから批判されることが多いが、もともとは評価をする教師も感想文の対象書籍を読んでいなければ評価できるはずがないという考えから来ていると思われる。感想文の元になっている書籍を読むべきだという意見は一見もっともらしく聞こえるし、クラス全員が違う本を選んできたら物理的に評価することが難しいという声が多いことも理解できる。しかし、そこには「そもそも読書感想文とは何か」という視点が欠けてしまっているがゆえの誤解がある。

そもそも「感想文」というのは、その本について語ることではなく、その本を読んだ自分自身について語ることなはずである。どの程度読んだのか、その解釈の幅や深さは誰とも比べることも評価することもできない。たった数ページ読むだけで深く感想を抱くこともあれば、タイトルからだけでも気づきを得ることもある。つまらないと思いながら全文を表面的に読むよりもよっぽど価値がある。

「要約文」であれば全文に目を通す必要があるし、評価もしやすい。しかし「感想文」というのは、必ずしも本全体についての感想である必要も、筆者の考えを正しく理解する必要もない。その読書体験が、自分にどう影響して、心がどう動いたのかということだ。そう考えれば、評価者である教師が、対象書籍を読んでいる必要はない。もちろんそもそも評価ということとも相性が悪い。読んだ人間が共感するか否かというだけの話だ。

私個人の意見としては、自費出版ではなく紙媒体として出版されているものであれば、電子書籍も対象書籍として認めるべきと考える。紙媒体の書籍は複数人が関わって、複雑な手続きを経て出版に至っているため客観性がある。もちろん自費出版の中に優れた書籍もあるし、逆に商業的でないぶん誠意のあるものも存在するが、初等教育で触れるものとしてはフィルターを通し、一定の水準をクリアーしたものであった方が扱いやすいだろう。

つまり、小中学生の読書感想文については、商業出版されている中から好きな本を自由に選ぶのが良いが、それがかなわないならば、指定された本のどの部分をどれくらい読むのかを自由にすることで、意味のある課題になると考える。

何を書けば良いのか?

次に何を書けば良いのかについて考えてみたい。たとえば、「つまらなかった」のであれば、なぜつまらないと思ったのかを書く。「別に読みたくない」と思ったのならば、なぜそう思ったのかを掘り下げる。極端な話、感想はあるが「書きたくない」ことだってあると思う。心の内をさらすことは子どもにとってもハードルが高い。しかし、そういう思いに気づいたのならば、そういう自分の感情について考えたって良いだろう。本をきっかけに自分と向き合うことにこそ、感想文の意義がある。あらすじが読み取れているかどうかを問いたいのならば、それは感想文ではない。

知り合いの編集者は「あらすじを書かない、読んで起こった心の変化と、それに起因する身辺雑感だけでまとめろ」とアドバイスしたところ、子どもに怒られたという。これは日頃から感想文にはあらすじを書くものだという指導がされているからであろう。

定期的に話題になるものに「感想文のテンプレート」がある。「その本を選んだ理由」「あらすじ」「印象的だった部分」「自分ならどうするか」これらを順に書いていくことで、評価されやすい感想文になるというものである。

そもそも好きなテーマでもない限り「方法」を伝えられずにただ「思ったことを書け」と言われても難しい。まずは「型」から学ぶことは一つの方法である。とりあえずテンプレートやフレームに合わせて書いてみる。細かくナビゲートされることで、自分の中にあるものが認知される。これは教育においてとりわけ重要な機能の一つである。また平安後期から明治にかけて初等教育の素読教材として『実語教』というものがあった。冒頭「山高故不貴 以有樹為貴 (山高きが故に貴からず。木有るを以て貴しとす。)」とはじまる書物で、リズムが良いので寺子屋では暗唱させたという。もちろん児童には難解な内容だが、意味も分からず暗唱していたものが、やがて成長して様々な経験をするなかで、自分なりの意味付けがなされてようやく素養となる。そういう学びだ。

ただし、テンプレートやフレームが採点基準になってしまい、これに合わせることが目的化しては本末転倒であるし、『実語教』のようなものであれば、「いまは分からなくても大丈夫」ということを大人サイドが明確に自覚して伝えながら活用する必要がある。本をきっかけに気づいた自分の素直な思いについて書くにしても、テンプレートやフレームに合わせて書いてみるにしても、教師や大人の理解が前提なのは言うまでもない。

何よりも大事なのは、「読書感想文」という課題に取り組むことで、成長につながるようにすることである。そのためには、前向きに取り組めるような仕掛けやマインドセットが必須である。まずは現場の教師が、「いままでこのようにやってきたのだから」と言う思考停止状態に気づき、今一度「読書感想文」を捉え直すことからはじめたい。また、家庭においてもそういうマインドで声かけやサポートをしたり、一緒に読書を楽しんだり、あるいは批判的に意見を言い合うことで自らの「感想」に気づき、シェアすることに慣れることができる。一人でも多くの小中学生が読書体験をポジティブに感じることができる関わりが持てるよう、社会の変化に合わせて考え方を点検し改善を続ける理性が必要ではないだろうか。

アルスコンビネーター/知窓学舎塾長/多摩大学大学院客員教授

1995年より教育・アート・ジャーナリズムの現場でパラレルキャリア×プレイングマネージャとしてのキャリアを積み、1つの専門分野では得にくい視点と技術の越境統合を探究するアルスコンビネーター。2万人を超える直接指導経験を活かし「受験×探究」をコンセプトにした学習塾『知窓学舎』を運営。主宰する『教養の未来研究所』では企業や学校と連携し、これからの時代を豊かに生きるための「リベラルアーツ」と「日常と非日常の再編集」をテーマに、住まい・学校職場環境・サードプレイス・旅のトータルデザインに取り組んでいる。近著『正解のない教室』(朝日新聞出版)◆ご依頼はこちらまで:yahagi@aftermode.com

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