教育とジャーナリズムのマクドナルド化―合理化の非合理性について考える

予備校での授業中、僕が問題を言い終わる前に素早く答えを「早撃ち」してくる生徒が居ます。もちろん僕は受けて立ちます。ノリの良いクラスだとそれが早撃ち合戦になって、ガンマン達が文脈から問題の先を推測して答えを撃ってくるようになります。クイズ番組的ですね。クイズ番組との違いは、僕も即興でターゲットとなる問題を作っているので、フェイントがかけにくいことです。そんな真剣勝負の緊張感の中で、ふと思い出すことがあります。

◆マニュアルの常識化

学生の頃喫茶店でアルバイトをしていた僕は、カウンターでトレーや食器を洗いながら、店の自動ドアが開いた瞬間に、誰よりも早く「いらっしゃいませ!」と言うことを秘密のミッションとしていました。スピードより心がこもっていることが大事なのは言うまでもないことですが、僕自身、客として店に入ったときに、店員になかなか気付いてもらえないことがとても嫌だったんです。忙しいときなど、気持ちは分かりますが、気付かないフリをする店員も居ますよね。声を発するくらいいくらでも出来るはずなのに。で、僕は「いらっしゃいませ」の早撃ちをすることで、店の雰囲気も良くなるし、お客さんにも喜んで戴けると思っていたんですね。実際、連動して店全体の「いらっしゃいませ」が少しずつ早くなっていって、僕は密かにほくそ笑んでいたものでした。

この店ではお客さんが帰るとき、後ろ姿に向かって「有り難うございます」と声をかけることになっていました。別に間違っているわけではないのですが、なんとなく違和感があった僕は「有り難うございました! またご利用くださいませ!」と言っていました。しかし、「いらっしゃいませ」の早撃ちに比べ、こちらは全くといって良いほど浸透しませんでした。理由は明白で、接客マニュアルに「有り難うございます」と書いてあるんです。「いらっしゃいませ」のほうは言葉がマニュアル通りだったんですね。もう一つこの店では、「サンキュー」というかけ声があって、これは「了解」という意味で使われていたのですが、どうも馴染めませんでした。「アイミティー(アイスミルクティー)プリーズ」「はい、サンキュー」等と掛け合うのですが、「はい」が付いている時点でもう「サンキュー」は想定されたように機能していません。僕はこのことを何度か主張してみましたが、「仕事なのだからマニュアルに従うべき」という意見が大半で、平行線でした。

◆教育とジャーナリズムの「マクドナルド化」

アメリカの社会学者ジョージ・リッツァはこのようなマニュアル化、規格化による徹底的な合理化傾向を「マクドナルド化(McDonaldization)」と呼びました。実に分かりやすいですね。これはまさにマクドナルド的経営を象徴する「効率性」「計算可能性」「予測可能性」「脱人間化」の四つの特徴を追求するような傾向が、あらゆる分野に浸透しているというのですが、どんな分野でもそれが「合理的」であると言えるでしょうか。

僕が関わっているジャーナリズム業界や教育業界も例外ではありません。例えば、「予定稿」といって、取材している試合が終わる前に「勝った場合」と「負けた場合」の両方の記事を書いておいて、結果が出たら数字などを付け加えて入稿するんですね。パラリンピックの現場でもそこかしこで見かけました。そこにはまだ入場していない選手の緊張した様子や、まだ上がっていない観客の歓声についてまで書かれていたりします。

またある塾ではマニュアル通りの授業が出来るかどうかを最優先して講師を評価していました。そのマニュアルにはなんと、テキストのこのポイントでこういうギャグを言う、ということまで指示されていて、曰く「講師が変わっても同質の授業を提供するため」だというんですね。まさに脱人間化です。これは極端な例ですが、指導要領的な研修やマニュアルがある教育機関は多いですから、その扱い方によっては同じような構造になりかねません。

僕の授業が盛り上がっているのを見たある講師に、「あの方法をマニュアル化してみたらどうか」と提案されたことがありますが、それも似た発想ですね。ルールを含め、お互いにその場で考えるからこそ真剣勝負になるわけで、予定調和で熱くなるのはなかなか大変なことです。同じようにやっても上手く行かないこともありますし、どうしてもそこには意外性が必要になってきます。また、流れやタイミング、それに誰がやるのかということが重要な気がします。同じことを言ったって笑いを取る人も居れば、シラケさせる人も居ます。それは方法だけではなくて、認識されているキャラクターの問題もあります。ルックスや声だけでなく、今までの「場」との関わりも大事な要素に成ります。

◆合理化しすぎると人は離れる

フランスの社会学者ジャン・ボードリヤールは、商品は「差異」において消費される、つまり機能自体よりも「他とは違う」意味や存在感に価値を見出している、と言いました。授業も記事も、伝われば同じなのかというとそんなことはないですよね。同じテーマの同じ授業でも、また記事やアート作品でもまとっている「アウラ(※)」が違います。「違うからこそ価値を感じる」ということが軽視され、「画一化された機能こそが価値だ」という近代化ムーブメントの中、ドイツの社会学者マックス・ヴェーバーは、合理化しすぎることによって逆に人々の心を捉えられなくなり、それは非合理的になることをとっくに喝破していました。もちろん、産業革命以前には、ものが不足していましたから、一つ一つのアウラよりも、多くの人がものを持つことが出来ることに価値が移行したことも分かりますし、また商品の価値を保証するという意味でも、画一化に価値が置かれたことは想像に難くありません。しかし、各家庭に必需品が行き渡った現代の先進国において、もう一度消えたアウラを灯し、クールなメディアをホットにしていきたいというような時代の要請を感じます。特に「伝える」ことや「コミュニケーション」を目的とした場合、その本質が見えやすくなるような気がします。(矢萩邦彦/studio AFTERMODE)

(※)ドイツの文化評論家ヴァルター・ベンヤミンが『複製技術時代の芸術』の中で論じた「優れた芸術作品を前にして人が経験するであろう畏怖や崇敬の感覚」のこと。今風に言うとオーラ。例:「オーラがあるよね」≒「(良い意味で)なんか違うよね」

関連記事

若者が挨拶をしないわけ-教育業界のケースからコミュニケーションを考える