【深掘り「鎌倉殿の13人」】比企能員が殺害!北条時政が能員を討った意外な理由
大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の31回目では、ついに比企能員が殺害された。今回は『愚管抄』を中心にして、比企の乱を詳しく掘り下げてみよう。
■比企能員の最期
建仁3年(1203)8月、源頼家が突如として病に伏した。時政は頼家の生前に遺領の分配を決定したので(こちら)、比企能員は不利な裁定に不満を抱き、両者の確執は決定的になった。
能員は若狭局を通して、病床の頼家に時政の討伐を訴え、これを許可された。この話を立ち聞きしていたのが、北条政子である。政子は、この事実をただちに時政に報告した。
同年9月2日、北条時政は仏事の件で、名越邸(鎌倉市弁谷)に能員を呼び出した。すでに、時政は能員の謀反の計画を知っていたので、ただちに捕らえたのである。能員を殺害したのは、天野遠景と仁田忠常だった。
その直後、北条義時を大将とする軍勢が小御所に押し寄せ、比企一族は滅亡したのである。このとき、頼家の嫡子の一幡も亡くなったという。時政が能員を討った理由は、能員が謀反を画策していたからだった。
以上は『吾妻鏡』の記述であるが、慈円が執筆した『愚管抄』にはどのように書かれているのか、検証することにしよう。
■『愚管抄』に見る比企の乱
建仁3年(1203)9月(実際は8月)、頼家は重病となり、すでに死も間近と思われた。能員は頼家の妻となった娘に一幡を産ませていたので、頼家の死後は一幡に継がせようとした。そして、栄耀栄華を極めようとしたのだ。
このことを知った時政は、能員の野望を阻止しようと考えた。頼家の弟の千幡(のちの実朝)は、頼朝も大変愛していたので、千幡こそが頼家の後継者になるべきと考えた。念のために言うと、『愚管抄』には能員が謀反を計画したとは書いていない。
同年9月2日、時政は能員を呼び出して、仁田忠常に殺害させた。その後、病に伏していた頼家を大江広元の館に幽閉した。その後、比企一族も滅亡に追い込まれたのである。
■まとめ
『愚管抄』を素直に読むと、時政は能員の台頭を恐れて先に手を打ったのであって、能員が謀反を画策していたなどとは書いていない。また、政子が能員の謀反(頼家に時政討伐の許可を得たこと)を立ち聞きしていたことにも触れていない。
つまり、『吾妻鏡』はのちに北条氏が編纂に関わったという書物の性格から、能員と頼家が陰謀を企んでいたこと、そして政子が偶然その話を耳にしたことにし、比企一族の討伐を正当化した可能性がある。