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【戦国こぼれ話】ソフトバンク孫社長の「三方ヶ原の戦いで負けた徳川家康の気分」は変

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
徳川家康。(提供:イメージマート)

 ソフトバンクグループが6ヵ月で5兆円を超える赤字を計上。孫正義社長が「徳川家康三方ヶ原戦役画像」をスライドに映し、「戒めとしたい」と発言したという。こちら。この点について説明しよう。

■徳川家康と三方ヶ原の戦い

 元亀3年(1573)12月、徳川家康は織田信長と協力し、三方ヶ原(静岡県浜松市北区)で武田信玄の軍勢に戦いを挑んだが、結果は無残な敗北だった。

 逃げる家康は、あまりの恐怖に途中で脱糞してしまった。家康は浜松城に到着後、その事実を家臣から指摘され、「これは味噌だ」と家臣に言い訳したといわれている。

 その後、家康が戒めとして、頬杖をついた自分の姿を描かせた。これが有名な「顰(しかみ)像」といわれており、皆さんも一度は目にしたことがあるのかもしれない。

 家康は、生涯にわたって「顰(しかみ)像」を座右に置き、その時の悔しさを忘れないようにしたといわれている。これが、かつての通説である。

■「顰像」の疑問

 「顰(しかみ)像」は正式にいうと、「徳川家康三方ヶ原戦役画像」(徳川美術館所蔵)と名付けられている。この絵の伝来については、いささか疑問が提示されている。

 そもそも18世紀末頃、「徳川家康三方ヶ原戦役画像」は家康の肖像画とされていた。しかし、明治期になると「長篠戦役図」と称されるようになった。

 昭和に入ると、三方ヶ原の敗戦後、家康が自らを戒めるための肖像画として伝わった。つまり、途中から長篠の戦いではなく、三方ヶ原の戦い後の家康の姿とされたのだ。

 現在、「徳川家康三方ヶ原戦役画像」は、三方ヶ原合戦後に書かれたものではなく、後世に描かれたものではないかといわれている。描法を勘案すると、17世紀頃の作品と指摘されている。

 「徳川家康三方ヶ原戦役画像」には、「三方ヶ原合戦後のものである」と書いた添付資料(箱書や目録など)がない。したがって、伝来がはっきりしないので、現在では三方ヶ原合戦後の作品という説は疑問視されている。

■まとめ

 とはいえ、ソフトバンクグループの孫社長は、世界的な経営者。家康のように捲土重来し、再び業績を盛り返すことだろう。大いに期待したい。

【主要参考文献】

渡邊大門『誤解だらけの徳川家康』(幻冬舎新書)。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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