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【深掘り「鎌倉殿の13人」】源頼家は政治的に無能で、害悪そのものの人物だったのか

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
源頼家は無能だったのか。(提供:イメージマート)

 大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の30回目では、源頼家が阿野全成の殺害を指示した。頼家は政治的に無能だったのか、詳しく掘り下げてみよう。

■源頼家の手腕

 ドラマのなかで源頼家を演じているのは、金子大地さん。若くて征夷大将軍になったものの、いつもイライラしている頼家を好演している。頼家は本当にこんなにいつもイライラしていて、身勝手な人間だったのだろうか。

 頼家の父の頼朝が亡くなったのは、建久10年(1200)1月のことである。その直後、頼家は朝廷から源家の家督相続、および御家人を守護として各国に置くことを許された。このとき頼家は、19歳の青年だった。

 頼朝が東国に武家政権を築いてから、まだ日は浅かった。おまけに頼家はまだ若く、頼朝のようなカリスマ性がなかった。当時、幕府の中枢にいた面々は、強い危機感を抱いたはずである。

 おまけに幕府内部では、頼家の乳父だった比企能員ら比企一族と北条時政、義時ら北条一族が対立の様相を呈していた。こうした難局を乗り切るために置かれたのが、頼家を補佐する「13人の合議制」である。

 いかに若いとはいえ、頼家は「鎌倉殿」としての強い意識を持っていただろうから、あまり「13人の合議制」の設置に気が進まなかった。そこで若い近習5人を登用し、強い存在感を示そうとしたのだろう。

■頼家の愚行

 頼朝の跡を継いだ頼家には、あまり良い話が伝わっていない。頼家は元久元年(1204)7月に謀殺されるが、「殺されても仕方がないな」というエピソードが多いのである。

 たとえば、頼家が安達景盛の妻を寝取った。頼家は母の北条政子の諌言により、安達一族の討伐を取り止めたが、将軍にしては感心しない行動である。これは最悪のエピソードであるが、為政者としてふさわしくない頼家の言動はほかにもある。はっきりいえば、頼家は政治的に無能ということになろう。

 ところで、こうした頼家の愚行に関しては、『吾妻鏡』に記録された。『吾妻鏡』は北条氏の関係者が編纂に関与したと考えられるので、頼家の良くない話を書き留めるのは、致し方ない点もある。頼家の愚行は『吾妻鏡』にしか書いていないことが多いので、もはや真偽の確かめようがない。

 当時の御家人は頼朝が亡くなって、その独裁から解放されたので、安堵したといえるかもしれない。頼朝の死をきっかけにして、「鎌倉殿(=頼家)」をいただきながらも、みんなで話し合って決める体制を欲したのである。ところが、頼家はそれに満足しなかった。

■まとめ

 御家人は頼家をいただきながらも、合議によって物事を決定することを望んだ。一方で、頼家は親裁を進めながら、評価できる政策を一部で行ったものの、御家人には受け入れられなかったようだ。こうした御家人の不満が蓄積し、やがて大爆発するのである。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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