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【深掘り「鎌倉殿の13人」】源頼朝の後継者をめぐって、北条時政が焦った深刻な理由

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
源頼朝が亡くなって、なぜ北条時政は焦ったのだろうか。(提供:イメージマート)

 大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の25回目では、源頼朝が落馬して亡くなった。頼朝の生前から北条時政は後継者をめぐり困っていたが、その理由を詳しく掘り下げてみよう。

■源頼朝と北条時政との関係

 平治の乱で平家に敗れた源頼朝は、何とか死を免れて伊豆国へと流罪になった。流罪とはいえ、頼朝は獄舎に繋がれることなく、一定の監視下のもとで外出することができた。

 頼朝の独身時代は長きに及んだが、やがて時政の娘・政子と恋仲になった。頼朝と政子が結ばれた経緯は諸説あるが、いずれにしても時政が相当な覚悟を持って認めたのは事実だろう。

 当時、平家は清盛が健在で、まさしく全盛期だった。頼朝はその平家と戦ったのだから、時政は2人の結婚を認めると、立場が悪くなるのは当然である。

 しかし、打倒平家の兵を挙げた頼朝は、時政の期待に応え、見事に平家を滅亡に追い込んだ。すでに時政は頼朝の舅として威勢を誇っていたが、いっそうその地位は向上した。

 平家滅亡後の文治元年(1185)11月、頼朝の命を受けた時政は上洛し、京都守護として活動した。その際、守護・地頭の設置を朝廷に認めさせたので(文治の勅許)、時政の功績は大きかったといえよう。

■比企一族と源頼家

 頼朝と政子の間には、嫡男の頼家が誕生した。頼家の乳母を担当したのは、河越重頼の妻(比企尼の次女)だった。これに平賀義信の妻(比企尼の三女)、比企能員の妻らが加わるなど、比企一族が頼家を支えることになったのである。

 当時、乳母というのは単なる子守ではなく、被養育者の成人後も大きな影響力を及ぼした。乳母の夫も同じことで、ときに政治的な発言権を持つようになった。

 乳母というのは、父母の信頼の厚い者が任されたのであるが、かえって政治的権力を保持することになったので、極めて厄介な存在になりかねなかったのである。

 一方、頼家の弟の実朝の乳母は、政子の妹の阿波局(阿野全成の妻)らが務めていた。時政にすれば、今後の北条氏の発展を願うのであれば、頼朝死後の将軍は頼家ではなく、実朝のほうが良かったのである。

■まとめ

 頼朝死後の後継者問題は、単に嫡男の頼家が継げばよいというわけにはいかなかった。以後の幕府の主導権を掌握する意味で、頼家ならば能員の立場が有利になり、実朝ならば時政が優位に立った。それゆえ、時政は頼朝が亡くなって、非常に焦ったのである。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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