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【深掘り「鎌倉殿の13人」】和田義盛と巴御前は、本当に結ばれたのか

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
和田義盛と巴御前は、本当に結ばれたのか?(提供:イメージマート)

 大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の25回目では、久々に巴御前が登場した。和田義盛と巴御前は結ばれたといわれているが、その点を詳しく掘り下げてみよう。

■巴御前とは

 巴御前は中原兼遠の娘で、木曽義仲の愛人とされているが、生没年は不詳である。父については諸説あり、『源平闘諍録』は樋口兼光の娘とし、『源平盛衰記』は中原兼遠の娘とする。

 義仲が打倒平氏の兵を挙げると、巴御前は義仲に従って平家と戦った。巴御前は強弓と太力で名を馳せ、武勇の誉れが高い女性だった。

 ところが、巴御前は軍記物語の『平家物語』、『源平盛衰記』に登場するものの、鎌倉幕府の正史『吾妻鏡』には名前が見えない。謎の女性なのである。

 その後、義仲は上洛したものの、都の人々の不興を買い孤立し、頼朝と雌雄を決することになった。寿永3年(1184)1月、木曽義仲は勢多・宇治川の戦いで源義経、同範頼に敗れ、その後無念にも討たれてしまった。

 義仲は、巴御前に女であることを理由とし、すぐに逃亡するよう命令した。義仲は自らの最期のときに、女がいては名折れになるとも考えていたようだ。

 巴御前は義仲の命に従わず戦い続け、大力で知られた敵の恩田師重を討ち取った。すると、鎧と兜を脱ぎ捨て、信濃へと落ち延びたといわれている。

■2人が結ばれた経緯

 実は、『源平盛衰記』には、この話の続きがある。信濃へ逃亡した巴御前は、頼朝から鎌倉に出頭するよう命じられた。巴御前が鎌倉に到着すると、頼朝は配下の者に処刑するよう命令したのである。

 これを聞いた和田義盛は頼朝の前に進み出て、巴御前の身柄を預かりたいと訴え出た。しかし、頼朝は巴御前が義仲の仇である自分を討つであろうことを懸念し、その申し出を拒否したのだ。

 しかし、義盛は諦めなかった。義盛は頼朝が挙兵して以降、一族が忠節を尽くしたのだから、巴御前を預かっても問題が生じないであろうことを訴えた。自分の責任で預かるということだろう。

 頼朝は義盛の粘り強さに根負けし、ついに義盛の申し出を許可したのである。そして、義盛と巴御前は結ばれ、2人の間に誕生したのが3男の朝比奈義秀だといわれている。

 ところで、義秀は安元2年(1176)に生まれたといわれている。すでにお気付きのとおり、義秀が誕生したのは、義盛と巴御前が結ばれる前なので、話の辻褄が合わない。したがって、2人が結ばれたという説は、極めて疑わしいといわざるを得ないだろう。

■まとめ

 建暦3年(1213)5月に和田合戦が勃発し、和田一族は北条義時によって滅亡に追い込まれた。戦後、巴御前は越中に逃亡し出家した。亡くなったのは、91歳だったといわれている。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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