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【戦国こぼれ話】本能寺の変の直前、明智光秀はメンタルが弱り、極度のノイローゼだったのか

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
本能寺の本堂。(写真:イメージマート)

 今から440年前の天正10年(1582)6月2日、明智光秀は本能寺で織田信長を討った。本能寺の変の直前、光秀はノイローゼだったという説があるが。それが正しいのか検証しよう。

■実はメンタルが強かった明智光秀

 本能寺の変が起こった原因の分析については、歴史学者だけでなく、精神科医、心理学者などが参入した。彼らは、光秀が精神的な疾患を抱えていたのではないかと指摘した(「光秀ノイローゼ説」)。最初に、光秀の性格について触れておきたいと思う。

 一般的に光秀は、教養豊かで物静かな性格だったような印象を受ける。一方の信長は、気性が激しかったといわれている。これが事実ならば、二人の性格は相容れず、性格の不一致が認められる。光秀と信長の性格不一致説は、かなり以前から唱えられていた説で、これこそが本能寺の変の遠因になったということになろう。

 ところが、フロイスの『日本史』には、光秀の違った一面が書かれている。それは、これまでのイメージを一新するものである。次に掲出しよう。

(光秀は)裏切りや密会を好み、刑を処するに残酷で、独裁的でもあったが、己を偽装するのに抜け目がなく、戦争においては謀略を得意とし、忍耐力に富み、計略と策謀の達人であった。友人たちには、人を欺くために七二の方法を体得し、学習したと吹聴していた。

 この記述を見る限り、先述した光秀のイメージとは逆であり、信長の性格に近いことがわかる。光秀のメンタルは強かったのだ。天正7年(1579)の八上城(兵庫県丹波篠山市)攻撃で、光秀は兵糧攻めを展開し、容赦なく敵兵を討ち取った。

 その際、光秀は配下の将兵に対して、恩賞は手柄次第であること、城から出てきた者は一人残らず斬り殺せと指示した。当時、残酷な指示は珍しいことではなかったので、光秀は当時の戦国武将と同じで、華奢な教養人をイメージする必要はないだろう。

 何よりも、光秀と信長の性格が不一致だったということを示す明確な根拠史料はない。謀反を起こす以上、光秀は信長に何らかの不満なりを抱いていただろうから、性格が合わなかったといえば、そういう可能性もあるという程度のことに過ぎない。

■本当に光秀はノイローゼだったのか

 光秀が精神的な疾患を抱えていた、あるいはノイローゼだったという説について触れておこう。先述のとおり、この説を唱えたのは、歴史学者ではなく、精神科医、心理学者である。

 これまで、光秀は左遷されるとか(不安説)、信長に辱めを受けたとか(怨恨説)の理由で、将来に不安を抱えていた、あるいは信長に恨みを抱いたと言われてきた。追い詰められた光秀は、信長に叛旗を翻したということになろう。

 しかし、不安説や怨恨説は依拠した史料に問題があり、とうてい受け入れることはできない。精神科医や心理学者は、信頼度の劣る史料に基づき診断しているので、「光秀ノイローゼ説」は成り立たない。

 結論を言えば、光秀が精神的な疾患を抱えていた、あるいはノイローゼだったということは大いに疑問である。そもそも患者を直接診断することなく、病名を下せるのかという問題もある。あくまで不安説や怨恨説の延長線上にある、憶測に過ぎない説といえよう。

■むすび

 光秀は主君で絶大な権力を持つ信長に叛旗を翻そうとしたのだから、変の直前の精神状態が尋常でなかったのは理解できる。しかし、光秀と信長との関係が悪化し、その影響でノイローゼになったとは、にわかに言い難いのである。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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