大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の第19回では、源頼朝が全国に守護・地頭の設置を認められた。これが鎌倉幕府の成立の根拠とされるが、その点を詳しく掘り下げてみよう。

■乱立する諸説

 私が高校生だったのは、今から36年前。当時、「鎌倉幕府はいつ成立しましたか?」と聞かれたら、躊躇なく「建久3年(1192)!」と答えていた。暗記する方法は、「1192(いい国)作ろう」というゴロ合わせだった。

 歳月を経た現在、同じ質問をされた場合、「建久3年(1192)!」と答えると間違いである。現在、鎌倉幕府の成立年は、文治元年(1185)11月が正しいとされている(理由は後述)。

 ただし、それはあくまで教科書での話であることに留意したい。各教科書がバラバラの成立年を採用すると、受験も含めて不便である。あくまで、有力な学説の一つということになろう。

 戦後、鎌倉幕府の成立をめぐっては、日本史学者、法制史学者を含め、激しい議論が交わされた。その中で、鎌倉幕府成立に関する代表的な学説は、以下の6つである。

①治承4年(1180)末頃 ―源頼朝が東国を制圧。

②寿永2年(1183)10月―頼朝が朝廷から宣旨を与えられ、東国支配権を認められる。

③元暦元年(1184)10月―頼朝が公文所、問注所を設置。

④文治元年(1185)11月―頼朝が朝廷から文治勅許を得て、守護・地頭の設置を認められる。

⑤建久元年(1190)11月―頼朝が朝廷から右近衛大将に補任される。

⑥建久3年(1192)7月 ―頼朝が朝廷から征夷大将軍に補任される。

 この中では、頼朝が幕府の主宰者を意味する征夷大将軍に就任した時点が、鎌倉幕府の成立とみなされたのは自然かもしれない。では、なぜ文治元年(1185)説が有力になったのだろうか。

■文治勅許の重み

 まず、文治勅許について説明しておく必要があろう。文治元年(1185)10月、源義経と叔父の源行家が頼朝に反旗を翻したので、ただちに北条時政を上洛させた。

 同年11月、時政は義経と行家を追捕するため、諸国に守護・地頭を設置する権限を頼朝に与えるよう、朝廷に奏請した。後述するとおり、守護には軍事動員権が求められていた。その結果、朝廷から与えられたのが文治勅許である。

 鎌倉幕府の権力の源泉は、守護、地頭に求められた。それゆえ、文治勅許の意義を評価し、これを鎌倉幕府の成立した年とみなしたのである。その後、頼朝は日本国惣追捕使、総地頭に補任されたといわれるようになった。とはいえ、この説に疑問がないわけではない。

 頼朝は挙兵直後、惣追捕使を下総、上総、相模などに設置していた。文治勅許以降ではない。そもそも守護とは惣追捕使のことで、一国単位で軍事動員を行う権限を保持していた。

 やがて、惣追捕使は国地頭へと名称が変わるが、再び惣追捕使へと戻された。その役割も軍事動員を掛けるものから、国内の御家人の統率へと変化し、13世紀以降は守護という名称になったのである。 

 現在では文治元年(1185)説が有力とはいえ、それ以前から頼朝が惣追捕使を設置していたならば、それが妥当といえるのか議論の余地があろう。

■むすび

 教科書の記述では、混乱を避けるため文治元年(1185)説を採用しているが、歴史学界では必ずしも正解とはいえない。「○月○日に鎌倉幕府が成立しました」という決定的な一次史料などが出現しない以上、この問題の根本的な解決は非常に困難である。