大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の第18回では、源義経が壇ノ浦の戦いで平家を滅亡に追い込んだ。その後、頼朝は義経を見限ったが、その理由について詳しく掘り下げてみよう。

■源頼朝と弟の義経の関係

 源頼朝の弟のなかで、特に信頼されていたのが範頼と義経である。2人は頼朝の名代として、平家追討の立役者となり、やがて滅亡に追い込んだ。

 しかし、範頼が三河守に任官され厚遇される一方、弟の義経は冷遇された感がある。義経が冷遇された理由は不明だが、この一件も頼朝と義経の対立に少なからず影響しているだろう。もう少し、その点について考えてみよう。

 そもそも頼朝は義経の存在を心強いと思いながらも、決して甘やかしていたわけではない。養和元年(1182)7月に鶴岡若宮宝殿の上棟式が行われた際、頼朝は義経に馬を引くように命じたが、義経は不満そうな態度で暗に断ろうとした。

 すると、頼朝は「馬を引くのは身分が低い者がする仕事なので嫌なのか」と厳しく叱責した。結局、義経は馬を引くことになったが、ほかの御家人の手前、弟であっても甘やかさない頼朝の信条を汲み取ることができる。

■理由1:無断での任官

 頼朝が義経を見限った第一の理由は、無断で任官したことである。

 頼朝は御家人に対し、朝廷から無断で官職を授かってはいけないと厳命していた。官職の授与は頼朝の推挙に委ねられ、それは義経ら兄弟もまったく同じ扱いだった。

 元暦元年(1184)6月、それまでの軍功が称えられ、範頼には三河守が与えられた。しかし、義経には官職が与えられなかった。その理由は不明であるが、義経が不満を抱いた可能性はあろう。

 そのような影響があったのか、同年8月、義経は後白河法皇から左衛門少尉、検非違使に任じられた。これは頼朝の推挙を経ていなかったので、無断での任官だった。頼朝の面目は丸つぶれである。

 義経は「法皇の意思によるもので、固辞を許されずお受けしたまで」と言い逃れようとしたが、実際は任官を望んだはずである。同年9月、義経はさらに従五位下に叙され、10月には院の昇殿を許可された。頼朝の怒りは収まらなかったに違いない。

■理由2:安徳天皇の死

 頼朝が義経を見限った第二の理由は、安徳天皇が生きて戻らなかったことである。

 頼朝は朝廷との良好な関係を堅持し、東国経営を行おうとした。その際に重要だったのは、平家が都落ちした際、連行された安徳を生きて連れ戻すことだった。

 安徳天皇は高倉上皇と平徳子の子であり、後白河の孫でもあった。平家は自らの正当性を担保するため、安徳を都から連れ出したが、後白河にとっては不本意であり、一刻も早い帰京を望んだはずである。

 元暦2年(1185)3月の壇ノ浦の戦いで、安徳は二位の尼とともに入水した。義経は軍功を焦るあまり、いささか配慮が足りなかったようである。頼朝にとっては、痛恨の出来事だったに違いない。

■理由3:宝剣は戻らず

 頼朝が義経を見限った第三の理由は、三種の神器のうち宝剣が戻らなかったことだ。

 平家が都落ちした際、安徳だけではなく三種の神器を持ち去られていた。三種の神器とは、皇位継承の証である八咫鏡(神鏡)、草薙剣(宝剣)、八尺瓊勾玉(神璽)の3つである。

 安徳が平家とともに都落ちしたあと、代わりに後鳥羽が即位したが、三種の神器がなかったので、不完全な天皇とみなされていた。従って、頼朝は何が何でも三種の神器を持ち帰ることを至上の命題としていた。

 しかし、壇ノ浦の戦いで、神鏡と神璽は何とか奪い返したが、宝剣は水底深く沈んだ。以後、朝廷は何度も探索を試みたが、宝剣が見つかることはなかったのである。頼朝は宝剣が沈んだことを知ったとき、思わず天を仰いだという。痛恨の極みだった。

■むすび

 頼朝にとって義経は欠かすことができない存在だったが、指示に従わないようであれば、話は別だった。おそらく頼朝は、義経は散々やらかした挙句、後白河に擦り寄ったように見えたのであろう。いかに血を分けた兄弟とはいえ、頼朝は非情の決断を下さなければならなかったのである。