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【深読み「鎌倉殿の13人」】源頼朝は義経ではなく、なぜ範頼に平家追討の出陣を命じたのか

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
源頼朝は、弟の義経を嫌っていたようだ。(提供:アフロ)

 大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の第18回では、源範頼が平家に大苦戦を強いられ、ついに義経が出陣した。なぜ平家追討を命じられたのが義経でなかったのか、詳しく掘り下げてみよう。

■源範頼の叙位任官

 寿永3年(1184)2月、源義経、範頼兄弟は、一ノ谷の戦いで平家に勝利した。その結果、平家は有力な一門を戦いで失い、屋島へと逃亡せざるを得なくなった。

 この戦いで、範頼は頼朝の期待以上の成果を挙げた。同年6月、範頼は軍功を賞され、頼朝の朝廷への推挙で三河守に任官された。しかし、同じく軍功を挙げた義経は任官されなかった。その理由は、詳らかではない。

 同年7月から8月にかけて、三日平氏の乱が平家の本拠である伊勢、伊賀、近江で勃発した。これにより義経は、頼朝から追討のため出陣を命じられた。義経は出陣し、敵を見事に討ち取った。

 しかし、ここで予想外のことが起こった。戦いの最中の同年8月6日、義経はあろうことか、頼朝に無断で後白河法皇から左衛門少尉、検非違使に任じられたのである。

 この無断の任官は、頼朝の逆鱗に触れた。義経は「法皇の意思によるもので、固辞を許されずお受けしたまで」と言い逃れようとしたが、頼朝の怒りは収まらなかったに違いない。

■範頼の出陣

 義経が伊賀などに出陣したことなども相まって、頼朝は平家追討を範頼に命じた。寿永3年(1184)8月、範頼は意気揚々とし、1千の兵を従えて鎌倉を出発した。

 入京した範頼は、朝廷から平家追討の官符を受け、山陽道を安芸、周防、長門へと平家に迫った。その間の道中で、範頼の軍勢には西国武士も加わったに違いない。

 長期間にわたる行軍では、兵糧の確保が大きな課題となった。兵糧は道中で確保することになるが、必ずしもあてがあったわけではない。

 源氏に勢いがあったとはいえ、西国は平家の影響力がいまだに強かったのだ。同年11月以降、範頼は兵糧の調達に苦心した。現地の人々から強引に兵糧を徴収すると、反発を受けることが予想された。

 頼朝は範頼に「住民から憎まれず、心を砕いて兵糧を調達する」ことを書状で伝えた。かつて木曽義仲は京都で兵糧を住民から強奪し、大きな反発を受けた。その轍を踏まないための配慮である。

■ピンチに陥った範頼

 頼朝のアドバイスがあったものの、範頼の兵糧調達はうまくいかなかった。瀬戸内海の制海権は平家に握られていたこともあり、とても平家追討どころではなかった。

 範頼は、九州に渡海する兵船すら調達に困っていた。九州から搬送される兵糧は、長門で平知盛の軍勢が搬入を妨害していた。これでは満足に戦えず、範頼は苦戦していたのだ。

 元暦2年(1185)に事態は好転し、豊後の緒方氏ら在地武士が範頼に80艘の兵船を提供した。また、周防の宇佐那木氏は範頼に兵糧米を提供したので、範頼の軍勢は豊後の渡海に成功した。

 しかし、範頼は長門の彦島の平家を攻撃しようとしたが、兵船不足で中止となった。範頼は平家追討に半年近くを要したが、まったく戦果を挙げることができなかったのである。

■むすび

 頼朝は義経と距離を置き、範頼を平家追討に起用したが、期待外れだったので頭を悩ました。そこで、義経を起用せざるを得なくなったのである。もはや頼朝は、プライドをかなぐり捨てなくてはならなかったのだ。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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