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【戦国こぼれ話】大坂夏の陣で敗北した豊臣秀頼ら豊臣一族の最期とは

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
大坂夏の陣後、豊臣一族は滅亡した。(写真:イメージマート)

 407年前の今日(5月8日)は、大坂夏の陣で豊臣一族が敗北(その後、滅亡)した日である。豊臣秀頼、淀殿ら豊臣一族はどのような最期を迎えたのか、確認することにしよう。

 慶長20年(1615)5月8日、豊臣秀頼と母の淀殿は徳川方の総攻撃を受け、大坂城で自害した。秀頼の死により、豊臣家は滅亡に追い込まれたのである。

 秀頼と淀殿の最期については、秀頼が矢倉の脇におり、淀殿の次に助命嘆願の言葉を述べたが、徳川方の軍勢が押し寄せたので、そのまま観念して切腹したという(『言緒卿記』)。『舜旧記』にも秀頼・淀殿が自害したと書かれている。

 秀頼と淀殿の亡くなった場所は大坂城内の千畳敷で、秀頼・淀殿の以下が自害すると、城に火が放たれたという(『春日社司祐範』)。2人が千畳敷で自害したことは、『薩藩旧記雑録後編』にも書かれている。

 しかし、『本光国師日記』には、「5月8日、大坂城中の唐物倉に秀頼ならびに御袋(淀殿)、大野修理(治長)、速水甲斐守(守久)以下、付女中衆が数多く籠もり降参してきた。井伊掃部(直孝)、安藤対馬(守重)が検使として詰め、倉へ鉄砲を撃ち掛け、皆殺しにし火を掛けた」と書かれている。

 追い詰められた秀頼らは唐物倉に籠もったが、降参を認められず、井伊直孝らの鉄砲で射殺された。秀頼と淀君は自害したのではなく、鉄砲で撃ち殺されたのだ。『本光国師日記』は、秀頼らに切腹すら許さない、豊臣家の哀れな姿をあえて描いたのかもしれない。

 大坂落城後、残った豊臣家の関係者の扱いはどうなったのだろうか。秀頼の長女は、奈阿姫である。慶長14年(1609)に誕生し、大坂城落城時はまだ7歳の子供にすぎなかった。

 落城後、千姫は奈阿姫の助命嘆願を家康に行った。家康は奈阿姫が出家して鎌倉の東慶寺に入ることを条件にして、千姫の要望を受け入れた。東慶寺は「縁切寺」として有名な寺院で、離縁を希望する女性が駆け込んだ。

 出家した奈阿姫は天秀尼と名を改め、東慶寺の第20代住持になった。住持となった天秀尼は、東慶寺の縁切寺としての寺法存続を家康に許可され、千姫らの援助により客殿、方丈の再興を行った。天秀尼が亡くなったのは、正保2年(1645)である。37歳という若さだった。

 秀頼の長男・国松は、慶長13年(1608)に誕生し、大坂落城時はまだ8歳の子供だった。国松は乳母と脱出したが、伏見町に潜伏しているところを5月23日に見つかり、京都所司代・板倉勝重のもとに連行された(『細川家記』)。

 翌5月23日、六条河原で国松は斬首された。国松は家康に対し、これまでの秀吉と秀頼への背信行為を責めたという。そして、最後は自ら首を差し出すと、斬首されたのである(『日本切支丹宗門史』)。

 国松は8歳の子供だったが、名門・豊臣家の1人として堂々とした態度であったように描かれている。ただ、国松の態度を引き立てるため、少しばかり誇張して書かれたのではないかと感じる。

 国松の死は、斬首の様子を見物した人々の悲しみを誘った(『梵舜日記』)。徳川方に与した細川忠興も、国松の死を悼んだ(『細川家記』)。

 国松の墓は、最初は誓願寺(京都市)にあったが、のちに豊国神社に移された。2人の死によって、豊臣家は完全に断絶したのである。 

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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