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【深読み「鎌倉殿の13人」】激闘! 一ノ谷の戦い! 源義経による逆落としは本当にあったのか

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
源義経による逆落としは本当にあったのか?(提供:イメージマート)

 大河ドラマ「鎌倉殿の13人」第16回では、源義経が一ノ谷の戦いで大活躍した。その際の義経による逆落としがあまり有名だが、それが事実なのか詳しく掘り下げてみよう。

■源義経の進撃

 寿永3年(1184)2月4日、三草山の戦いで平家を蹴散らした源義経は、その勢いで一ノ谷へと進撃した。義経の軍勢は播磨から、源範頼が率いる軍勢は、西国街道から一ノ谷に迫った。

 義経の軍勢は鵯越(神戸市兵庫区)で二手に分かれ、義経はわずかな手勢(約70)で山中を進軍し、安田義定らが率いる大半の軍勢は、平通盛と教経が守備する夢野口に向かった。

 土地勘がない義経一行は、年老いた猟師に鵯越から一ノ谷への道案内をさせようとした。猟師は鵯越が峻厳なので、とても人馬が行き交うことはできないと説明した。

 義経は、鹿がこの道を往来するのか尋ねると、猟師は往来すると答えた。義経は鹿が行き交うなら、馬も大丈夫なはずと考え、猟師に道案内するよう求めたが、歳を取り過ぎたという理由で断られた。

 そこで、猟師は息子を道案内にと紹介すると、義経は鷲尾義久と名乗らせ配下に加えた。こうして義経は、鵯越から一ノ谷へ向かった。しかし、一ノ谷の裏手は断崖絶壁で、とても人馬が駆け下りることができるとは思えなかった。

■義経の決断

 義経が鵯越を進軍している頃、一ノ谷では平家と範頼軍が激しい攻防を繰り広げていた。互いに相譲らず、勝敗は容易に決しなかった。勝敗のカギは、義経の作戦に掛かっていたのだ。

 義経は鵯越の断崖絶壁に立つと、坂を駆け下り、一ノ谷の平家軍に攻め込む覚悟を決めていた。そこで、義経は試しに二頭の馬を坂から落としてみた。一頭は途中で駆け下りるのに失敗したが、もう一頭は成功した。

 義経は馬の成功を見届けると、ただちに配下の武将に鵯越を駆け下りるよう命じた。先頭に立って駆け下りたのは、義経だった。あとに、配下の武将たちが続々と続いた。

 畠山重忠は馬を失うことを憂慮し、馬を背中に担いで鵯越を駆け下りた。その像は、埼玉県深谷市にある。重忠の剛力ぶりを伝える有名なエピソードだが、常識で考えると不可能だろう。

■義経の大勝利といくつかの謎

 平家は背後から義経が攻め込んで来るとは思わなかったので、あっという間に瓦解した。そこに範頼の軍勢も攻め込んだので、もはや平家は逃げるしかなかった。

 総大将の宗盛は、安徳天皇をはじめ一門とともに船で屋島(香川県高松市)へ逃亡した。平家は一門の有力者を戦いで失い、大きく戦力を削がれたのである。こうして戦いの舞台は、屋島へと移った。

 義経の逆落としは、疑問がないわけでもない。そもそも鵯越と一ノ谷は、約8kmも離れている。それゆえ今では、義経が駆け下りたのは一ノ谷の裏の鉄拐山ではないかとの説もある。

 しかし、私は現地に行ったことがあるが、今と地形が変わっている可能性があるとはいえ、急斜面を馬で駆け降りるのは現実的ではないように思う。極めて危険である。

 むしろ、山の急斜面を可能な限り避けつつ、人だけで鵯越から一ノ谷へ移動し、平家を急襲したと考えるのが妥当と思う。逆落としは、あまりに危険であり得ない。『平家物語』はあくまで文学作品なので、話を大袈裟に盛った可能性がある。 

■むすび

 いずれにしても、義経による急襲により、平家は壊滅して逃亡せざるを得なくなった。なお、一ノ谷の戦いでは平家一門の悲しい話もあるので、改めて取り上げることにしよう。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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