【深読み「鎌倉殿の13人」】北条政子は平兼隆と無理やり結婚させられそうになったのか
大河ドラマ「鎌倉殿の13人」3回目は、北条政子が平兼隆と無理やり結婚させられそうになっていた。果たして、これは史実とみなしてよいのだろうか。
■平兼隆とは
平兼隆は、信兼の子として誕生した。生年不詳。信兼は保元の乱で後白河方に与して戦ったが、のちに同じ桓武平氏の清盛の配下となった。兼隆は山木(静岡県伊豆の国市)に館を構えたので、山木兼隆とも称される。
治承3年(1179)、兼隆は父と仲違いし、伊豆国に流罪となった。奇しくも源頼朝と同じ罪状である。翌年、平時忠が知行国主となると、その目代に登用された。
■一連の事情
一方、伊豆に流された頼朝と北条政子は恋愛関係になり、将来を約束する仲になった。頼朝と政子の関係を知った時政は、この事実が平氏に露見することを恐れた。
そこで、時政は伊豆国の目代を務めていた山木兼隆に政子を嫁がせようとした。山木氏は、伊豆国の目代を務める有力者だったのだから、当然のことといえるだろう。
その後、政子は兼隆の屋敷で婚儀を結ばされそうになるが、こっそりと屋敷を抜け出し逃亡した。そして、雨のなかを伊豆権現へ向かい、頼朝と結ばれたという。
当時、アジールという習俗があり、聖なる宗教施設(神社、寺院)には政治権力が介入できなかった。それゆえ、頼朝と政子は難を逃れたのである。
雨のなかを頼朝のもとに向かったという話は、のちに『吾妻鏡』にも記されている。2人の情熱的な恋愛の逸話として非常に有名な話である。
■疑問が残る通説
頼朝と政子が結ばれたのは、治承元年(1177)頃といわれている。その翌年、2人の間に誕生したのが娘の大姫である。
頼朝と政子の婚姻の時期、大姫の誕生の時期、兼隆が伊豆に流された時期を考慮すると、政子が兼隆と無理やり結婚させられそうになったという話は成立しない。
兼隆が伊豆に流された治承3年(1179)の段階で、すでに頼朝と政子は結婚していたからである。年代的に矛盾するのだから、史実ではないと断言してよいだろう。
■むすび
政子が頼朝と結婚した逸話は、頼朝の将来性を買って、兼隆を選ばなかった先見性をアピールしたかったと考えられる。なお、兼隆は治承4年(1180)に頼朝に討たれた。