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【深読み「鎌倉殿の13人」】以仁王と源頼政の挙兵は、なぜ失敗したのだろうか

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
以仁王、源頼政の挙兵は、あっけなく失敗した。(提供:GYRO_PHOTOGRAPHY/イメージマート)

 大河ドラマ「鎌倉殿の13人」3回目は、以仁王と源頼政が挙兵したものの、あっけなく失敗した。なぜ、2人の挙兵は失敗したのだろうか。

 二人が挙兵した理由は、こちら

■挙兵した理由

 まず、以仁王(もちひとおう)と源頼政の挙兵の理由を考えてみよう。最初は、頼政の挙兵の理由である。

 頼政の嫡男・仲綱は、「木の下」(または「九重」)という名馬を所持していた。しかし、清盛の子・宗盛は、強引に「木の下」を奪い取ったのである。それは、平氏の威勢を背景にしたものだった。

 加えて、宗盛は奪った馬の名を「仲綱」と改名し、焼印を押して「仲綱」と呼ぶなどした。これには、さすがの頼政も大いに立腹し、以仁王に「打倒平氏」の挙兵を持ちかけたと伝わっている。

 とはいえ、この話は宗盛を愚将とした創作の可能性もあり、史実とは認めがたい。実際には、皇統が頼政が仕えた二条天皇の系統ではなく、平氏の息がかかった高倉天皇の系統に移ったことを理由にする研究者もいる。

 一方の以仁王は、皇位継承の有力な候補だったにもかかわらず、平氏と深い関係にあった高倉天皇が天皇になったので、その後の道を断たれた。それが原因といわれている。

 しかし、以仁王と頼政の接点を示すたしかな史料を欠くので、2人が協力して「打倒平氏」の兵を挙げた詳しい理由は明確ではない。

■合戦の経過

 治承4年(1180)4月、以仁王は諸国の源氏に宛てて「打倒平氏」の令旨を送った。同年4月27日、使者の源行家が伊豆の源頼朝のもとに届けた。

 ところが、同年5月になって、以仁王の「打倒平氏」の計画は露見した。以仁王の挙兵を平氏に知らせたのは、熊野別当湛増だったという。

 平氏一門の平時忠は、以仁王がいる三条高倉邸に向かったが、仲綱(頼政の子)から通報を受けた以仁王は、女装して園城寺(滋賀県大津市)へ逃げ込んだ。

 平氏は園城寺に押し寄せ、以仁王の引き渡しを求めたが、拒否された。その直後、頼政は園城寺の以仁王のもとに駆け付けたのである。

■以仁王と頼政の最期

 当初、園城寺は以仁王らをかばっていたが、だんだん旗色が悪くなったので、以仁王と頼政は園城寺を脱出した。一説によると、総勢1000余騎だったといわれている。

 むろん平氏は以仁王らを追跡し、宇治川付近で対峙した。この時点で、頼政の兵はわずか50騎だったという。先の1000余騎というのは、誇張かもしれない。しょせんは多勢に無勢で、頼政は平等院(京都府宇治市)へ退いた。

 そして、頼政は「もはやこれまで」と切腹して果てたのである。この仲綱も切腹、もう一人の子・兼綱は平氏に討たれた。こうして頼政一族は全滅した。

 以仁王は残ったわずかな兵とともに平等院を脱出したが、光明山鳥居(京都府木津川市)の前で敵の矢に当たり落馬。その直後、平氏によって討たれたのである。 

■むすび

 以仁王は「打倒平氏」の令旨を諸国に送ったものの、その後の計画について明確なビジョンを持っていたとは思えない。つまり、挙兵の準備が周到ではなかったように思える。

 同志の頼政に関しては、直前までの動きを見る限りでは、「打倒平氏」の意思が明確であったか不明である。というのも、平氏一門が以仁王がいる三条高倉邸に向かった際、子の兼綱は平氏に従っていたからだ。

 そもそも以仁王は自らの兵を持たず、頼政も源氏の有力者ではあったが、平氏に勝る軍事動員ができなかった。

 つまり、以仁王と頼政は挙兵の準備が十分ではないうえに、平氏との兵力差が圧倒的に劣っていた。負けるべくして負けたのである。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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