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【深読み「鎌倉殿の13人」】市川猿之助が怪演の「怪僧」文覚とは何者か

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
かつて神護寺には、文覚が住していた。(写真:ogurisu/イメージマート)

 大河ドラマ「鎌倉殿の13人」3回目は、市川猿之助さんが演じる文覚が登場した。文覚にはいろいろな怪しい噂があるが、いったいどんな人物だったのだろうか。

■文覚とは

 保延5年(1139)、文覚は渡辺党の武士・遠藤茂遠の子として誕生した。ゆえに文覚も元々は武士で、俗名を盛遠といった。当初、文覚は北面の武士として、上西門院(鳥羽天皇の娘)に仕えていた。

 文覚が北面の武士だった頃、同僚の源渡の妻・袈裟に恋をしたが、誤って袈裟を殺すという事件を引き起した。その結果、文覚は出家したのである。この話は、芥川龍之介の小説『袈裟と盛遠』の素材となったことで有名だ。

 その後、文覚は諸国を遍歴しつつ、僧侶としての修行を積み重ねた。仁安3年(1168)、神護寺(京都市右京区)に住むようになり、その興隆に努めたのである。

■怪しい噂がある文覚

 文覚には、数多くの怪しい噂がある。その性格は乱暴で、人の悪口を言いふらし、行動力こそあったものの、学識がまったくなかったという。歌人として名高い西行を憎んでいたともいわれている。

 また、天狗を祀り、海の嵐をも鎮める不思議な法力を持っていたといわれている。それらが事実か否かは不詳であるが、かなりアクの強い人物だったようだ。

■伊豆に流された文覚

 文覚は神護寺の再興を強硬に推し進め、ついには後白河法皇に荘園を神護寺に寄進するよう強要した。この行為が後白河の逆鱗に触れ、ついに伊豆へと流されたのである。

 伊豆に流された文覚は、源頼朝と知遇を得たという。それは4年にもわたるもので、朝夕を問わず互いに交流し、慣れ親しんだと伝わっている。

 治承2年(1178)、ようやく文覚は罪を許されて、京都に戻ることになった。文覚は決して後白河を恨むことなく、敬慕の念を抱いていたといわれている。

 それゆえ、翌年に後白河が平清盛に幽閉されると、文覚が怒り狂ったのは当然のことだった。そして、文覚はある思い切った行動に出る。

■挙兵を勧める

 治承4年(1180)、文覚は旧知の間柄となった頼朝に対して、挙兵を促したという。それは奇しくも、以仁王の「打倒平氏」の令旨が各地に送られたのと同じ頃だった。

 文覚は「打倒平氏」を命じた後白河の院宣(上皇からの命令書)を手にすると、ただちに頼朝のもとに向かい、「打倒平氏」の挙兵を迫ったのである。

 その際、文覚は頼朝の亡き父・義朝の髑髏を見せ、「打倒平氏」の挙兵を促したと伝わる。ただ、この話はいささか荒唐無稽に過ぎるだろう。

■むすび

 文覚に関する逸話は数知れないが、その最期も実は強烈である。その辺りについては、追々物語の進展とともに紹介したいと思う。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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