大河ドラマ「鎌倉殿の13人」3回目は、源行家が以仁王の「打倒平氏」の令旨を源頼朝に持参した。行家とは、いったいどんな人物だったのだろうか。

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■源行家とは

 源行家は、生年不詳。保元元年(1156)の保元の乱で斬首された、源為義の十男として誕生した。初名は、義盛である。為義の八男・為朝が保延5年(1139)の誕生なので、その翌年以降の生まれとなろう。

 ところで、為義には、鳥居禅尼という娘がいた。鳥居禅尼は、熊野速玉大社(和歌山県新宮市)の有力者だった行範の妻となった。行範の父は、16代目の熊野別当を務めた長範である。

 行範の死後、鳥居禅尼は残された子を育て、子は成長して立派にたくましく育った。那智執行となった範誉、弓の名手だった行快、歌人として名を知られた行遍である。

 保元の乱後、父が戦いに敗れて斬首されたので、行家は熊野新宮に潜んで生活した。その際、手を差し伸べてくれたのが、先述した鳥居禅尼である。

 平治元年(1159)に平治の乱が勃発すると、行家は兄の義朝のもとに馳せ参じた。ところが、義朝は無念にも平清盛に敗れ、尾張に逃亡する途中で殺されたのである。

 敗北した行家は、再び熊野を目指して逃亡した。以後、約20年にわたり、行家は熊野で潜伏生活を送った。むろん、この間における行家の動静ははっきりとしない。

■行家がもたらした以仁王の令旨

 治承4年(1180)、「打倒平氏」の気運が盛り上がると、行家は源頼政のもとを訪れた。行家は八条院の蔵人に任命され、同時に名を義盛から行家に改めた。

 そして、行家は以仁王の「打倒平氏」の令旨を手にし、怪しまれないよう山伏の姿に変装すると、各地の源氏のもとへ行き、令旨を伝達したのである。

 しかし、こうした行家の行動は、すでに熊野別当湛増に露見しており、湛増は平氏に報告したという。その結果、早々に以仁王の「打倒平氏」の計画がばれてしまったとの説もある。

■むすび

 このように行家は、頼朝の挙兵をうながす大きなきっかけを作った。ところが、その後の行家は、頼朝と行動をともにしなかった。その辺りは、ドラマの進展とともに改めて解説することにしよう。