今なら東大に一発合格できるレベル? 頭がめちゃくちゃ良かった武将5選
今やテレビのクイズ番組といえば、高学歴のタレントが出演するものが多くなってきた。戦国時代にあっても、東大に合格できるような優秀な武将がいた。そのうち代表的な5人を紹介することにしよう。
■細川幽斎(1543~1610)
教養人といえば、細川幽斎を外すわけにはいかないだろう。幽斎は和歌を三条西実枝(さねき)に学び、古今伝授を授けられ、二条派の歌学を継承した。
古今伝授とは、『古今和歌集』の難解な歌や語句などの解釈上の問題点について、師匠から弟子(あるいは親から子)へ伝え教授することだ。むろん、誰でも授けられるものではない。
幽斎は有職故実にも優れ、歌学などの分野も含めて『詠歌大概抄』、『九州道の記』、『東国陣道の記』、『伊勢物語闕疑抄(けつぎしょう)』『衆妙集』などの著作がある。
■徳川家康(1543~1616)
徳川家康も好学の士だった。若い頃から読書に親しみ、『論語』『中庸』『史記』『貞観政要』『延喜式』『吾妻鑑』などの古典を座右の書としていた。
古典籍の収集も熱心に行い、居城の駿府城内には駿河文庫があった。蔵書数は、約1万点だったといわれている。その後、駿河文庫の蔵書は御三家に譲られ、駿河御譲本として伝わった。
そのほか、家康は伏見版と称して、書物(木版本)の出版にも取り組んだ。駿河に移ってからは、駿河版と称する銅活字版を印刷・刊行したのである。
■吉川元春(1530~86)
永禄6年(1563)12月、吉川元春は『太平記』の書写を行い、2年後の7月に完了した。これは出雲尼子氏の戦いの陣中のことだったので、誠に驚異的な話である。
現在、元春が書写した『太平記』は、吉川史料館(山口県岩国市)が所蔵し、昭和34年(1959)に国の重要文化財に指定された。全巻揃った『太平記』として、高く評価されている。
■明智光秀(1528?~82)
明智光秀といえば、連歌である。連歌の師匠は不明であるが、たびたび連歌会を催したことは、当時の日記などで確認することができる。『源氏物語』の講読会にも参加していた。
なお、『愛宕百韻』の発句「ときは今 雨がしたなる 五月かな」は、光秀が土岐氏の再興と天下取りを表明したものと考えられてきたが、そんな解釈は成り立たないとの説が有力である。
■島津義弘(1535~1619)
島津義弘は、医術とりわけ戦陣医術に詳しかったという。戦陣医術とは、戦争の際に受けた刀傷、鉄砲傷などの治療のことをいう。
天正12年(1584)10月、義弘は配下の島津忠長と上井覚兼に対して秘伝の医術書を授け、1週間にわたって金瘡医術(戦陣医術に婦人病の治療を加えたもの)の講義を行ったという。
〔番外編〕赤松広秀(1562~1600)
赤松広秀は、儒学の祖といわれる藤原惺窩から朱子学を学んだ好学の士である。また、文禄・慶長の役で捕虜となった朝鮮の官僚・姜沆(カンハン)と交流したことでも知られている。
姜沆の著作『看羊録』には、「日本の将官は、すべてこれ盗賊であるが、ただ広通(広秀)だけは人間らしい心を持っている」と高く広秀を評価した記述がある。
しかし、広秀は大変勉強に熱心ではあったが、非常に飲み込みが悪く、あまり出来が良くなかったとも評価されている。
■まとめ
戦国時代は今のように大学こそなかったものの、勉強熱心な大名は数多く存在した。現在も博物館などに残る貴重な古典籍などは、彼らが保存に尽力した例があったことを忘れてはならない。
【この記事は、Yahoo!ニュース個人編集部とオーサーが内容に関して共同で企画し、オーサーが執筆したものです】