昨日、大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の第2回が放送された。大泉洋さんが演じる源頼朝は、「わしは兵など挙げん。いくさは苦手じゃ!」と言いつつ、終盤で北条義時に真意を明かしていたが、実際はどうだったのだろうか。

■以仁王の檄文

 治承4年(1180)4月、以仁王(後白河天皇の第三皇子)が打倒平氏の檄文を諸国の武将に送った。この檄文は源行家(頼朝の叔父)を通して、頼朝のもとにも届けられた。

 その直後、以仁王は源頼政とともに打倒平氏の兵を挙げるが、あえなく失敗。以仁王は奈良へ逃亡する途中で、流れ矢に当たり宇治(京都府宇治市)で絶命した。頼政も宇治平等院の戦いで討ち死にした。

 この結果、頼政は伊豆の知行国主だったが、その死によって平時忠(清盛の義弟)が新たに伊豆の知行国主に就任した。そして、山木兼隆が伊豆の目代(代官)になったのである。

 以仁王、頼政の死は、すぐさま頼朝のもとにも伝えられた。使者を務めた三善康清は、頼朝に陸奥に逃げるよう進言したという。平氏の追及から逃れるためだった。

 しかし、頼朝は康清のアドバイスには従わず、東国の諸豪族を動員し、打倒平氏の兵を挙げたのである。そこには、どのような事情があったのだろうか。

■貴種だから集まったのか

 頼朝が伊豆で20余年を過ごしている間、清盛の横暴は目に余るものがあった。後白河を幽閉して院政を止めさせるなど、言語道断の所業だったといえる。

 以仁王らの挙兵はその不満のあらわれであるが、あっけなく平氏によって鎮圧された。

 東国の諸豪族が頼朝を祭り上げたのは、河内源氏の流れを汲む貴種だったからだといわれている。頼朝も彼らの支援を期待していただろう。しかし、それは必ずしも正しくないと指摘されている。

 そもそも源氏の累代の家人である、山内首藤経俊、波多野義常は頼朝の招集に応じなかった。彼らは頼朝の使者に罵声を浴びせ、追い返したほどである。むろん、この時点で頼朝が確実に勝つという保証はない。

 頼朝の同族だった新田義重は、すぐさま挙兵の呼びかけに応じたわけではない。義重は、頼朝を格下とみなしていた節がある。頼朝の叔父・志田義広もすぐに挙兵に応じなかった。

 誰もが頼朝を貴種とみなし、祭り上げようとしたのではない。では、頼朝が兵を挙げたのは、いったいどのような理由によるものか。

■東国の諸豪族の期待

 頼朝が挙兵に踏み切ったのは、後白河からの密命があり、その恩に報いるためだったという。

 ただし、頼朝は自身で多くの兵を持たなかったのだから、これだけでは十分な説明ではない。関東の諸豪族の力が必要だ。

 治承4年(1180)6月、千葉胤頼と三浦義澄が頼朝のもとを訪れた。訪問の理由は決して明らかではないが、打倒平氏の挙兵について話し合われたと推測されている。

 というのも、千葉氏は平氏の家人から圧迫されており、日頃から強い不満を抱いていた。不満というより危機感かもしれない。

 当時、平氏の家人は伊豆や相模で受領や目代として勢力を伸ばし、強い危機感を持っていたのだ。気持ちは、三浦氏も同じである。

 頼朝は彼ら東国の諸豪族の不満を知り、さらに彼らから協力を得られることを強く確信し、挙兵に踏み切ったと考えられている。

 貴種だから頼朝が祭り上げられたとは、必ずしも言いにくい。お互いの利益を確保するため、協力体制を築いたといえよう。

 とはいえ、挙兵時の頼朝は盤石な体制ではなく、なお挙兵に応じない東国の諸豪族との戦いを強いられることになった。頼朝の挙兵は、一種の大きな賭けであったといえよう。

■むすび

 歴史を結果論で考えると、すべてがうまい具合に合理的に説明できるが、このときの頼朝は確実に平氏に勝利できる保証はなかった。

 いかに東国の諸豪族の支援があったとはいえ、頼朝の平家に対する挙兵は大博打だったのだ。

【主要参考文献】

元木泰雄『源頼朝』(中公新書)ほか。

【この記事は、Yahoo!ニュース個人編集部とオーサーが内容に関して共同で企画し、オーサーが執筆したものです】