来る1月17日(天正8年・1580)は三木城が羽柴(豊臣)秀吉の軍勢によって落とされ、城主の別所長治ら一族が切腹に追い込まれた日である。三木合戦の最大の謎は、長治が信長を裏切った理由だ。その点を考えてみよう。

■別所長治が寝返った事情

 三木城(兵庫県三木市)主の別所長治が織田信長を裏切った理由は、古くから多くの説が提示されてきたが、その多くは『別所長治記』などの軍記物語に拠るものが多い。

 しかし、それらの説はあくまで二次史料による俗説に過ぎない。一次史料に即して、別所氏が信長を裏切り、毛利方に与した事情を検討することにしよう。

 天正6年(1578)3月8日、本願寺は別所氏をはじめ、高砂の梶原氏、明石の明石氏以下、播磨国内の有力な国衆が信長のもとから離反したことを把握していた(「鷺森別院文書」)。

 単に、別所氏は単独の判断で信長から離反したのではなく、周辺の有力な領主とも十分に情報交換を行い、意思決定を行っていたと推測される。

 それを裏付けるかのごとく、同年3月11日付の顕如の書状には、秀吉は播磨に着陣したものの、播磨衆がことごとく心変わりしたので難儀していると書かれている(「顕如上人文案」)。

■毛利氏による調略戦

 ここまでの事情を考慮すると、これ以前から毛利方は別所氏ら播磨衆を寝返らせるため、調略戦を行っていたと容易に推測される。

 事実、別所氏の裏切りの背景には、毛利方による積極的な調略戦があった。同年3月、足利義昭は離反工作が成功し、別所氏ら播磨衆が味方になったことを喜んでいる(「吉川家文書」)。

 義昭の書状の中に「三木(別所長治)以下」と書かれており、別所氏が播磨国内の勢力の代表格と捉えられていたことがわかる。

 『信長公記』同年2月24日条以下には、秀吉の軍勢が加古川(兵庫県加古川市)の糟屋氏の居城を借りて進駐したこと、秀吉は書写山(同姫路市)に城を築いて陣を置いたことが記されている。

■長治の存分とは

 その間、別所氏は信長に「存分」を申し立て、三木城に籠もったとあるだけで、反旗を翻した具体的な理由などは何も書かれていない。

 同年3月の信長の書状にも長治が秀吉に「存分」を言い、敵つまり毛利氏に同意したとあるが、「存分」の具体的な中身はわかっていない。

 「存分」には「考え」「恨み」などの意味があるので、長治は信長や秀吉に対して何らかの不信感を抱いたのだろう。それゆえ、毛利方の誘いに応じたと考えられる。

 参考までに触れておくと、天正4年(1576)1月に信長に反旗を翻した八上城(兵庫県丹波篠山市)主・波多野秀治の娘は、長治の妻であったといわれている。

 秀治は天正7年(1579)6月に明智光秀の軍勢に敗れ、安土城(滋賀県近江八幡市)で処刑されたが、長治は秀治との連携を目論んでいた可能性があることに注意すべきだろう。

■むすび

 このように、別所氏による信長への離反劇については、

①別所氏が当時の情勢を冷静に判断した結果であること。

②長治が秀吉に対して何らかの不信感を抱いたこと。

③義昭による熱心な離反工作があったこと。

が大きな要因だったと考えられる。別所氏は、毛利方が有利であると意思決定をしたのだ。

 従来説では、①長治が名門赤松氏の流れを汲んでいたので、秀吉ごときの配下に入ることを嫌ったという説、②長治の家臣が提案した作戦が受け入れられなかったから離反したとの説もある。

 とはいえ、そうした感情論は、とうてい認められないだろう。