【戦国こぼれ話】一次史料と二次史料とは? 戦国時代の新説に注意すべきポイント
今年も戦国時代については、多くの新説が提唱された。とはいえ、その大半は疑わしいもので、検討にすら値しないものもある。信じてはいけない戦国時代の新説のポイントとは?
■一次史料とは
そもそも歴史研究は、どのようにして行われるのか?歴史研究の根本は史料にある。
史料といっても何でもいいわけではなく、大別して一次史料と二次史料がある。まず一次史料から説明しよう。
一次史料とは、同時代の古文書(書状など)や日記を意味する。たとえば、豊臣秀吉の書状、公家や僧侶の書いた日記などが該当する。同時代に成立したものなので、信頼度が高い。
ただし、一次史料だからすべて正しいことが書かれているとは限らないので、史料批判を行って子細に検討する必要がある。
たとえば、本能寺の変のときの諸大名の書状には、誤った情報による錯誤が見られる。
日記については、公家や僧侶が直接見聞きしたものもあるが、外部から得た情報をそのまま記している場合もある。
後者の場合は、書いたことが結果的に間違っていることも珍しくない。
とはいえ、一次史料は信頼度が高い点において、真っ先に参照されるべきであり、史料批判を経て論文の根拠となる。
端的に言えば、史実は一次史料によって確定されるのだ。
■問題が多い二次史料
二次史料とは、後世に作成された史料である。系図、家譜、軍記物語、奉公書、覚書などが該当する。
一般的に、二次史料は時間が経過してから作成されるので、史料的な性質が劣るとされている。むろん、史料批判は必要である。
しかし、良質な史料があるのも事実である。たとえば、太田牛一が著した織田信長の一代記『信長公記』は、史実と照らし合わせても、誤りが少ないとされている。
二次史料は、目的があって作成される。おおむね先祖の功績を称えるケースが多い。
したがって、都合の悪いことが書かれなかったり、活躍ぶりを大袈裟に表現することがある。史実を捻じ曲げて書くことも、大いにある話である。
二次史料の作成に際しては、残った一次史料はもとより、口伝、関係者の聞き取りなど多種多様である。口伝や聞き取りの場合は、記憶違いなどによる誤りも少なくない。
つまり、二次史料は単体で用いて史実を確定するには向かない史料であり、あくまで一次史料に基づくべきであろう。
50年も100年(あるいはもっと前)も前のことを正確に記すのは、至難の業である。
■新説の問題
新聞やテレビを見ていると、戦国時代の新説が報道されるが、非常にがっかりすることが多い。
たいていの場合、新説の根拠が二次史料のケースが少なくないのだ。
たとえば、天正10年(1582)6月の本能寺の変で、明智光秀は本能寺を攻撃せず、鳥羽に控えていたとの新説が発表された。
根拠は『乙夜之書物(いつやのかきもの)』という二次史料である。
『乙夜之書物』は、加賀藩の兵学者・関屋政春が執筆したもので、その成立は寛文9年(1669)~同11年(1671)といわれている。
内容は、著者の政春が500前後の逸話を聞き取ったものとされている。
『乙夜之書物』は注目すべき史料なのかもしれないが、その記述の多くがほかの史料で裏付けられないことに難がある。あくまで逸話にすぎない。
さらに、光秀が鳥羽にいたという情報は、政春が明智光秀の重臣・斉藤利三の子・利宗から直接聞いたのではなく、甥の清左衛門からの又聞きであることもマイナス要素だ。
二次史料にすぎない『乙夜之書物』だけを根拠にして、光秀は鳥羽に控えていたというのは早計にすぎるのだ。
こういうのは、ほんの一例にすぎない。
■まとめ
マスコミの記者が歴史に精通していないのはいたしかたがないが、少なくとも複数の研究者に裏付けの取材をする必要があろう。
新説というのは、泉が湧くようなものではないのだ。その点は、注意が必要である。